資治通鑑漢紀十七 中宗孝宣皇帝 地節 四年 前66年
春二月:外家への加封
- 春二月、宣帝は外祖母に博平君の号を与えた。
- 舅の王無故を平昌侯、王武を楽昌侯に封じた。
夏五月:異常気象と親族相隠しの免責
- 夏五月、山陽・済陰で鶏卵ほどもある雹が降り、地に二尺五寸も積もって二十余人が死に、飛鳥もみな死んだ。
- 宣帝は、子が父母を、妻が夫を、孫が祖父母をかくまっても処罰しないと詔した。
- また、広川恵王の孫の劉文を広川王に立てた。
霍氏の危機感と陰謀の始まり
- 霍顕・霍禹・霍山・霍雲は、自分たちの権勢が日ごとに削られているのを見て、しばしば向かい合って泣き、怨み言を交わした。
- 霍山は、魏相が政務を掌握して霍光時代の法令を変え、大将軍の過失まで言い立てていると非難した。また儒生には貧寒の出身者が多く、飢えた遠来の者ほど妄言を好み、自分たち霍氏を害そうとすると恐れた。
- しかも民間では、霍氏が許皇后を毒殺したとの噂まで広まっていた。霍顕はついにその事実を霍禹・霍山・霍雲に打ち明けた。
- 一同は大いに驚き、近ごろ一門が引き離され、女婿らが外任に出されるのもそのためだと悟り、重罪は免れないとして、ついに謀反を決意した。
張赦らの策と発覚
- 霍雲の舅の李竟に近しい張赦は、丞相魏相と平恩侯許伯が政権を握っている以上、太夫人霍顕が太后に働きかけてまずこの二人を誅し、天子を別所に移せば、あとは太后のもとで事を運べると説いた。
- しかし長安の男子張章がこれを告発し、廷尉に下された。捕縛命令が出たものの、後に霍山らへの逮捕は中止された。
- 霍氏側は、これは太后を重んじて徹底追及しなかっただけで、禍の兆しはすでに現れたと理解し、いずれ発覚すれば族滅は避けられないとして、先手を打つことにした。
- それぞれの娘たちを夫のもとに帰して備えさせたが、皆「どこへ逃れても同じだ」と答えた。
李竟の罪と霍雲・霍山の免職
- ちょうど李竟が諸侯王との交通の罪に連座し、その供述の中で霍氏のことも出た。
- このため霍雲・霍山は宿衛に不適当として免官され、帰第を命じられた。
張敞の上封事
- 山陽太守張敞は封事を上げ、霍光の大功そのものは大きいが、周公でも七年で政を返したのに霍光は二十年も大権を握り続けたこと、臣下の側にも早く直言して三侯を罷免し張安世も致仕させるよう勧めるべきだったことを論じた。
- いま朝廷には直言がなく、詔書がみずからその役割を果たしているのは策を失っているとし、いまのように少しずつ切り離せば、大司馬霍禹や一族はかえって恐懼して危険だと警告した。
- 宣帝はその意見を大いに善しとしたが、張敞を召して用いることはしなかった。
霍氏の最終計画
- 霍禹・霍山らの家では妖怪めいた怪異が重なり、一門は憂愁した。
- 霍山は、丞相が宗廟の祭祀用の羔・兎・蛙を勝手に減らしたことを罪にできると言い出した。
- そこで太后に博平君のための酒宴を開かせ、丞相・平恩侯以下を招き、范明友と鄧広漢に太后の命として彼らを引き出して斬らせ、そのうえで天子を廃し、霍禹を立てる計画を定めた。
- だが実行前に、霍雲に玄菟太守、任宣に代郡太守の任命が出るなどして動揺が広がるうち、計画は露見した。
秋七月八月:霍氏誅滅と霍皇后の廃位
- 秋七月、霍雲・霍山・范明友は自殺した。霍顕・霍禹・鄧広漢らは逮捕され、霍禹は腰斬に処された。
- 霍顕と諸娘・兄弟らはみな棄市となり、霍氏に連座して誅滅された家は数十家に及んだ。
- 太僕杜延年も、旧く霍氏と関係があったため免官された。
- 八月己酉、皇后霍氏は廃されて昭台宮に幽閉された。
- 乙丑、反謀を告発した張章・董忠・楊惲・金安上・史高らを列侯に封じた。
徐生の先見
- 以前から茂陵の徐生は、霍氏は必ず滅ぶと見ていた。
- 奢りは不遜を生み、不遜は君主への侮りにつながる。高位にあれば人の嫉視を集めるのに、そのうえ逆道を行うのだから滅亡は当然だとして、宣帝にもたびたび書を上げ、今のうちに抑制すべきだと勧めていた。
- しかし当時は採用されず、霍氏誅滅後には告発者たちばかりが封侯された。
- 徐生はあらためて、曲突徙薪を勧めた者より、火事の後に消火した者ばかりが賞されるのは誤りだと訴えた。宣帝はこれを認め、帛十匹を賜い、のち郎に任じた。
霍光と驂乗のこと
- 宣帝は即位当初、高廟に謁した際に霍光が驂乗したとき、背に芒刺があるように恐れた。
- その後、張安世が驂乗を代行すると、宣帝はのびのびと振る舞えたという。
- 世間では、霍氏の禍はこの驂乗の時にすでに芽生えていたと伝えた。
- のち十二年後、廃后霍氏はさらに雲林館へ移され、ついに自殺した。
史論:霍光の功と失
- 班固は、霍光の功績は周公や阿衡にも劣らないが、学問や大義の理解に乏しく、妻の邪謀を抑えられず、娘を皇后に立てて欲望を増長させたため、死後三年で宗族誅滅の禍を招いたと評した。
- 司馬光もまた、霍光の忠は認めつつ、人臣が威福を久しく専らにして返さなければ、子孫まで安泰ではいられないと論じた。
- また一方で、宣帝がただ禄秩と富貴を与えて子孫を養えばよかったのに、政兵まで握らせたのち切り崩したため、霍氏に邪謀を生じさせたのだとして、宣帝にも一端の責任があるとした。
- さらに、霍光ほどの忠勲を残した家が祭祀すら絶えたのは、宣帝の恩がやや薄かったとも批判している。
九月十二月:刑政と人事
- 九月、天下の塩価を引き下げた。
- また郡国に、毎年、拘繋中の囚人で拷問や笞打ち、飢寒・疾病などによって獄死した者について、その人名・属県・爵位・里を報告させ、丞相・御史に考課させた。
- 十二月、清河王劉年は内乱の罪で廃され、房陵へ移された。
朱邑・龔遂
- この年、北海太守の朱邑は治績第一として中央に召され、大司農となった。
- また勃海太守の龔遂は水衡都尉に入った。
- もともと勃海近辺では飢饉が続き盗賊が蜂起していたため、宣帝は善治の者を求め、故昌邑郎中令の龔遂を勃海太守に抜擢した。
- 龔遂は、賊徒も飢寒に追われた皇帝の赤子にすぎないとし、威で抑えるか、徳で安んじるかを問われると、安撫を選ぶと答えた。
- 赴任すると追捕の官をやめさせ、農具を持つ者は良民として扱い、兵器を持つ者のみを賊とした。これにより盗賊はほどなく解散した。
- その後は倉廩を開いて貧民を救い、良吏を選び、農桑・植樹・畜養を勧め、刀剣を売って牛を買わせるなどして民生を建て直した。勃海は平穏となった。
烏孫・亀茲の婚姻関係
- 烏孫公主の娘は亀茲王絳賓の夫人となっていた。
- 絳賓は、自分が漢の外孫を娶ったのだから、夫人とともに朝見したいと上書した。