資治通鑑漢紀十六 中宗孝宣皇帝上之上 本始 元年 前73年
定策の功臣への封賞
- 春、宗廟を安んじた定策の功により、霍光にはさらに一万七千戸が加増され、旧封と合わせて二万戸となった。
- 車騎将軍の富平侯張安世以下、加増を受けた者十人、新たに侯に封ぜられた者五人、関内侯の爵を賜った者八人があった。
霍光の権勢と帝の姿勢
- 霍光は叩頭して政を返上しようとしたが、宣帝は謙って受けず、諸事はまず霍光に報告した上で奏上させた。
- 霍光の一族は、昭帝以来すでに中郎将・奉車都尉・侍中・衛尉などを占め、兄弟・婿・外孫に至るまで朝廷に根を張っていた。昌邑王廃位後はその権勢が一層重くなった。
- それでも霍光は朝見のたび、帝の前で身を低くし、礼を尽くした。
地震と鳳凰
- 夏四月庚午、地震が起きた。
- 五月には鳳凰が膠東と千乗に現れ、天下に赦が下り、田租賦の徴収も停止された。
衛太子一家への諡号と改葬
- 六月、詔が出て、かつて湖県で死んだ故皇太子にまだ号諡がないので、歳時の祭祀と園邑の設置を議せよと命じた。
- 有司は、宣帝は昭帝の後を継いだ以上、実父母への祭祀は抑制されるべきだとしつつ、故皇太子には「戾」、その父には「悼」、母には「悼后」、史良娣には「戾夫人」の諡を上し、改葬するよう奏した。
- 秋七月、燕刺王の太子劉建を広陽王に立て、広陵王胥の少子劉弘を高密王に立てた。
黄霸の起用
- 武帝以来、上官桀を誅した後の霍光は、法令を厳格に用いて群臣を抑えたため、役人は厳酷を有能さと見なす風が強くなっていた。
- その中で、河南太守丞だった淮陽の黄霸だけは、寛和な施政で名を立てていた。宣帝は民間にいた頃から酷吏に苦しむ民を知っていたため、黄霸が公平に法を執ると聞き、廷尉正に召して疑獄を決させた。
- 黄霸は廷中で平正と称えられた。