資治通鑑漢紀十六 孝昭皇帝下 元平 一年 前74年
春二月:口賦の減額
- 春二月、民衆に課していた口賦銭を三割減らす詔が出された。これは一定年齢の男女から徴収する人頭税で、もとは天子の費用や軍馬の維持にも充てられていた。
夏四月:昭帝の崩御
- 夏四月癸未、昭帝が未央宮で崩じた。まだ若く、後継の子はいなかった。
後継者選定と昌邑王賀の迎立
- 武帝の子で存命なのは広陵王劉胥だけであったため、霍光は群臣と後継を協議した。
- しかし広陵王は日頃の素行に問題があり、武帝もこれを退けていたため、霍光は立てることに不安を抱いていた。
- その時、ある郎官が、古来には年長者を退けて適任者を立てた例があるとして、広陵王は宗廟を継ぐにふさわしくないと上書した。霍光はこれを是とし、その郎官を抜擢して九江太守に任じた。
- その日のうちに、皇后の詔を受けて、少府の楽成、宗正の劉徳、光禄大夫の丙吉、中郎将の利漢らが昌邑王劉賀を迎えるため長安を発った。
- 霍光はさらに皇后に奏し、右将軍張安世を車騎将軍へ移した。
昌邑王賀の旧来の放縦
- 劉賀は昌邑哀王劉髆の子で、平素から放縦で節度がなかった。武帝の喪中にも狩猟をやめず、方与への遊猟では半日足らずで二百里を駆けたこともあった。
- これに対し、中尉の王吉は、狩猟と逸楽は寿命も徳も損ない、書を学び礼を修める楽しみこそ真の益であるとして、長文の諫疏を奉った。賀はいったんは王吉の忠言を認め、牛肉・酒・脯を賜った。
- しかしその後も改めず、郎中令の龔遂が内では王に直諫し、外では傅・相を責め、涙ながらに諫め続けた。
- 賤しい取り巻きと遊び、賞賜も度を越していたため、龔遂は膠西王が諛臣のために滅んだ例を引き、経書と礼を学ぶ郎官十人を選んで侍らせたが、賀は数日で皆追い払ってしまった。
龔遂の再三の警告
- 賀が怪異を見たとき、龔遂はそれを天の戒めと解き、左右の者たちが犬のような人物ばかりであること、宮室が空になりかねぬことを告げて警戒を促した。
- また、血が席を汚したときも、陰惨な憂いの兆しとして恐れ慎むべきだと説いた。
- 賀は詩三百篇を学んでいながら、みずからの行いがそのどれ一つにも当てはまらぬと龔遂に厳しく責められたが、ついに改心しなかった。
徴書到着と長安への出発
- 長安からの召書が届くと、賀は夜のうちに火をともして開封し、その日のうちに出発した。昼には定陶へ達し、従者の馬が道に倒れるほどの強行軍だった。
- 王吉は、いまは喪中なのだから悲哀に専念し、霍光を敬い政事を一任すべきだと重ねて戒めた。
- しかし賀は道中で長鳴鶏を求めたり、竹杖を買わせたり、女子を車に載せたりした。使者がこれを責めると、龔遂はただちに奴僕を捕えて処罰し、王の名誉を守ろうとした。
長安到着と即位
- 覇上では大鴻臚が郊外で迎え、賀は乗輿車に移った。龔遂は、都が見えたら哭礼を行うよう何度も教え、賀は未央宮に入る前にようやく礼にかなった哭礼をした。
- 六月丙寅、賀は皇帝の璽綬を受けて皇帝位につき、皇后を皇太后と尊んだ。
- 壬申、昭帝は平陵に葬られた。崩御から葬送まで十日というきわめて急な日程であった。
即位後の乱行
- 昌邑王が帝位に就くと、昌邑国の旧臣たちは続々と長安へ呼び寄せられ、多くが越級して官職を得た。
- 相の安楽は長楽衛尉に昇進したが、龔遂は彼に涙ながらに、王は日に日に驕慢になり、諫言を受け入れず、喪中にもかかわらず酒宴・遊楽・猛獣遊び・儀仗の濫用にふけっていると語り、極力諫めるよう求めた。
- 賀は夢を見ても龔遂に尋ねたが、龔遂は常に近臣の讒諂を退け、先帝の旧臣やその子孫を側近に用いるよう勧めた。
- 太僕丞の張敞も、天下が新帝の政治を注視しているのに、国を支えた大臣ではなく昌邑出身の近臣ばかりを先に取り立てるのは重大な過ちだと諫めたが、王は聞かなかった。
霍光、廃立を決意
- 霍光は憂い、親しい故吏の田延年に相談した。田延年は、伊尹が太甲を廃した前例を引き、宗廟安定のためなら王を廃して別の賢者を立てるべきだと勧めた。
- 霍光は田延年を給事中に引き上げ、張安世と密かに計画を練った。
- ある時、王が外出しようとすると、光禄大夫の夏侯勝が、長雨は臣下が上をうかがう徴であり、今出るべきではないと諫めた。王は怒って夏侯勝を縛って役人に付した。
- 取り調べで夏侯勝は、『洪範』の説により、君主が道を失えば陰気が盛んとなり、下の者が上を討つ災いが起こると説明した。霍光と張安世は大いに驚き、ますます経術の士を重んじた。
丞相楊敞の同意
- 霍光と張安世が方針を固めると、田延年が丞相楊敞に伝えた。楊敞は恐れて答えられなかったが、その夫人が国家の大事であり、霍光と心を一つにしなければ先手を打たれて誅されると説いた。
- 楊敞はついに同意し、霍光の命に従うことを約した。
群臣会議と太后への奏上
- 癸巳、霍光は丞相・御史・将軍・列侯・中二千石・大夫・博士を未央宮に集め、昌邑王の昏乱は社稷を危うくすると述べた。群臣はみな驚いて沈黙した。
- すると田延年が進み出て、今日決断しなければ漢家の宗廟が絶える、ためらう者は斬るべきだと強く主張した。
- これにより群臣は一斉に霍光に一任すると答え、霍光は皆とともに太后に拝謁し、昌邑王は宗廟を継げない事情を詳しく述べた。
昌邑王の廃位
- 皇太后は未央宮の承明殿に臨み、諸禁門に詔して昌邑の群臣を入れさせなかった。賀が朝見に入ると、門が閉じられ、従臣たちは金馬門外へ追い出され、張安世が羽林騎を率いて二百余人を逮捕し、廷尉の詔獄へ送った。
- 賀はなお事情を知らず、自分の群臣たちに何の罪があるのかと不審がった。
- やがて太后に召されて殿上に出ると、太后は盛装して武帳中に坐し、侍衛はみな武装していた。尚書令が、賀の不孝・無礼・淫楽・制度の乱れを列挙した上奏文を読み上げた。
- 内容は、道中で喪礼を失したこと、女子を連れてきたこと、即位後に璽を軽々しく扱ったこと、旧臣や官奴を禁中に引き入れたこと、楽人を集めて喪中に演奏させたこと、北宮・桂宮で遊び、昭帝の宮人と淫乱したこと、昌邑哀王を勝手に厚く祀らせたことなど、二十七日のあいだに千百二十七件に及ぶ違法・不祥事であった。
- 博士たちも、これは不孝の極みであり、宗廟と万民を託すことはできないと議決した。
- 太后は廃位を許可し、霍光は賀から璽綬を解いて太后に返上した。
- 賀は西向きに拝して、自分は漢の大事に耐えられなかったと述べ、副車に乗せられて昌邑邸へ送られた。霍光は涙ながらに、社稷のためにやむを得なかったと告げた。
廃位後の処置
- 群臣は、廃された者は遠方に屏居させる古例に従い、賀を漢中の房陵県へ移すよう求めたが、太后は昌邑へ帰すと詔し、湯沐邑二千戸を賜った。昌邑王家の財物もそのまま与え、哀王の娘四人にもそれぞれ湯沐邑千戸を与えた。昌邑国は除かれて山陽郡に戻された。
- 昌邑の群臣は、在国中に王の罪過を奏上せず、また矯正もできずに大悪へ導いたとして、二百余人が下獄・誅殺された。
- ただし中尉王吉と郎中令龔遂は、忠直に再三諫めた実績により、死罪を減じられて髠刑のうえ城旦とされた。王の師であった王式も、詩三百篇を繰り返し諫めに用いたと述べ、減死となった。
皇曾孫病已の来歴
- 霍光は、太后が東宮で政をみる以上、経術に通じている必要があるとして、夏侯勝に『尚書』を講じさせ、勝を長信少府に任じ、関内侯の爵を与えた。
- ついで、武帝の曾孫である劉病已の出自が述べられる。衛太子の子の史皇孫進、その子が病已である。病已は生後まもなく巫蠱の獄に連座し、郡邸獄に収容された。
- 当時廷尉監であった丙吉は、皇曾孫が無実だと知って深く憐れみ、女徒の胡組・郭徴卿に授乳養育させ、清潔で乾いた場所に置き、日々みずから見回った。
- 武帝末年、長安の獄中に天子の気があるという望気説から、獄中の囚人を皆殺しにする命が下り、内謁者令郭穰が夜中に郡邸獄へ来た。丙吉は門を閉ざして入れず、皇曾孫は武帝の曾孫であるからなおさら殺せないと抗した。武帝はこれを聞いてかえって悟り、天下に赦しを行ったため、病已は生き残った。
- その後、丙吉は皇曾孫を郡邸獄から出し、史良娣の母の貞君と兄の史恭に託した。のち詔により掖庭で養われ、宗正の属籍に加えられた。
- 掖庭令張賀は旧恩から病已を手厚く養い、書を教え、娘を娶せようとしたが、弟の張安世が衛太子の後裔に娘をやることを許さなかった。そこで張賀は、宦者となっていた許広漢の娘を説得して娶わせた。
- 病已は若いころ、経書を学ぶ一方で遊侠的な気風もあり、闇社会や役人の得失に通じ、しばしば諸陵を往来し、三輔の地理民情に詳しくなった。長安では尚冠里に居していた。
皇曾孫擁立
- 昌邑王が廃された後、霍光・張安世らは新たな後継を協議していたが、丙吉は、掖庭から外家へ戻されている武帝曾孫の病已こそ、経術に通じ、徳行も穏やかであるとして推薦した。杜延年も同意した。
- 秋七月、霍光は丞相楊敞らと上奏し、病已は十八歳で、詩・論語・孝経を学び、節倹で慈仁の人であるから、昭帝の後を継ぎうると奏した。
- 皇太后はこれを許し、宗正劉徳が尚冠里の病已の家へ行き、沐浴させ、御衣を賜り、太僕は軨獵車で迎えた。
- 病已は宗正府で潔斎し、庚申に未央宮へ入って皇太后に見え、まず陽武侯に封ぜられた。
- まもなく群臣が璽綬を奉り、病已は皇帝位に即いた。高廟に謁し、皇太后を太皇太后と尊んだ。昌邑王廃位から新帝即位まで二十七日、朝廷と天下は動揺しなかった。
新帝即位後の余波
- 侍御史の厳延年は、霍光が主君を廃立するのは人臣の礼に反すると弾劾した。上奏は採用されなかったが、朝廷は彼の剛直を恐れ敬った。
- 八月己巳、安平敬侯楊敞が死去した。
- 九月、大赦が行われ、戊寅、蔡義が丞相となった。
- 許広漢の娘はかつて病已に嫁して子の奭を産んでおり、病已が即位すると許氏は倢伃となった。公卿の多くは霍光の娘を皇后にと考えていたが、帝はひそかに「微時の故剣」を求めるよう詔し、旧妻を忘れぬ意を示した。そこで許倢伃が皇后に立てられた。
- 十一月壬子、許氏が皇后に立った。霍光は、その父の許広漢が刑余の人であるとして、すぐには大きく取り立てず、一年以上たってから昌成君に封じた。
- 太皇太后は長楽宮へ移り、長楽宮には新たに屯衛が置かれた。