資治通鑑漢紀十六 中宗孝宣皇帝上之上 本始 二年 前72年

田延年の自殺

  • 春、大司農田延年が罪を得て自殺した。
  • 昭帝の葬儀の際、大司農として民間から喪車を雇い上げたが、延年は賃銀を水増しして三千万銭を着服したとして、仇敵に告発された。
  • 霍光は事情をただし、もし事実無根なら徹底的に調べるべきだと告げた。御史大夫田広明は、昌邑王廃位の大事は田延年の一言で成ったのだから、その功でこの程度の罪は覆うべきだと考え、霍光に取りなそうとした。
  • しかし霍光は、あの時の功は認めつつも、今は獄に赴いて公正な裁きを受けるほかないとした。
  • 延年は、ただ官が寛大であることを願うしかないが、獄に入って人に指さされ唾されるのは耐えられないとして、呼び出しの鼓が鳴ると自ら首を切って死んだ。

武帝の廟楽をめぐる論争

  • 夏五月、詔が出て、武帝の功徳は盛んであるのに廟楽がそれに見合っていない、列侯・二千石・博士に議論させよと命じた。
  • 庭中での大議では、ほとんどの群臣が詔に従うべきだとしたが、長信少府夏侯勝だけは反対した。
  • 夏侯勝は、武帝には四夷を討ち領土を広げた功はあるが、殺戮が多く、民力を尽くし、奢侈も甚だしく、蝗害・飢饉・流離・人食いまで起きたのだから、民への恩沢はなく、廟楽を立てるべきではないと論じた。
  • 公卿が「これは詔書だ」と詰め寄っても、夏侯勝は、臣下の道は正論を述べることであり、ただ旨に阿るのではないと退かなかった。
  • 丞相・御史は、夏侯勝が詔書を非議し先帝を毀ったと弾劾し、さらに丞相長史黄霸がこれを取り締まらなかったとして、二人とも下獄した。
  • 結局、有司は武帝廟を世宗廟と尊び、盛徳・文始・五行の舞を奏し、巡狩の地にも廟を立てることを請い、認められた。

獄中での講学

  • 夏侯勝と黄霸は長く拘禁されたが、黄霸は夏侯勝から『尚書』を学びたいと願った。
  • 夏侯勝は死罪の身を理由に辞したが、黄霸は「朝に道を聞けば夕に死んでもよい」と言ったので、夏侯勝はその志を評価して教授した。
  • 二人は獄中で二度の冬を過ごしながらも、講論を怠らなかった。

烏孫救援と匈奴征討の準備

  • 烏孫では、かつての公主が死んだ後、漢は楚王戊の孫の解憂を新たに公主として送り、岑娶に嫁がせていた。
  • 岑娶が死に際して国を季父の翁帰靡に託し、泥靡が成長したら返すよう命じたため、翁帰靡が立って肥王と号し、解憂公主を妻として三男二女をもうけた。
  • 昭帝の時、烏孫は匈奴・車師の侵攻を受けて救援を求め、漢もまた匈奴を討とうとしていたが、昭帝の崩御で中断していた。
  • 宣帝は光禄大夫常恵を烏孫へ遣わした。公主と昆弥は、匈奴が大軍で攻め、公主を引き渡させて漢との連絡を断とうとしているので、烏孫は精兵五万騎を出すから、漢も出兵してほしいと上書した。

五将軍の大遠征

  • 秋、大規模な匈奴遠征が決まり、五路の軍が発せられた。
  • 御史大夫田広明が祁連将軍として西河から、范明友が度遼将軍として張掖から、韓増が前将軍として雲中から、趙充国が蒲類将軍として酒泉から、田順が虎牙将軍として五原から、それぞれ三万から四万余騎を率いて出塞し、おのおの二千里以上進む計画とされた。
  • 常恵は校尉として節を持ち、烏孫軍を監護して共同作戦に当たることになった。