資治通鑑漢紀十五 孝昭皇帝上 始元 元年 前86年
夏:益州夷の反乱と討伐
- 益州の夷が二十四邑にわたりいっせいに反乱し、三万人余りが蜂起した。
- 朝廷は水衡都尉の吕破胡を派遣し、吏民を募るとともに、犍為郡・蜀郡から臨時に兵を徴発して討伐に向かわせ、大いにこれを破った。
秋:大赦と長雨
- 七月、天下に大赦が行われた。
- この年は大雨が続き、十月に至って渭橋が流失した。
燕王旦の不穏な動き
- 武帝の崩御後、諸侯王に璽書が下されたが、燕王旦は封が小さいことを理由に、朝廷に異変があるのではないかと疑い、側近の寿西長孫縱之・王孺らを長安へ送り、礼儀を問う名目でひそかに情勢を探らせた。
- さらに詔で褒賞を受け、銭三十万と食邑一万三千戸を加増されたが、旦はかえって怒り、自分こそ帝位に就くべきだと考えた。
- そこで宗室の中山哀王の子の劉長、斉孝王の孫の沢らと結び、武帝から非常時に備えて軍備を整える命を受けていたと偽って兵の準備を進めた。
- 郎中の成軫は、帝位を得られなかった以上、座して待つのではなく、自ら起つべきだと旦を煽った。
- 旦と沢は、少帝は武帝の子ではなく大臣たちが勝手に立てたのだという偽書を作り、郡国に流して人心を動揺させようとした。
- 沢は臨菑に帰り、青州刺史の雋不疑を殺して挙兵する計画を立てた。
- 燕王旦は、各地のならず者を招き寄せ、銅鉄を集めて武器を作り、戦車・騎兵・材官・歩卒をたびたび閲兵し、さらに大規模な狩猟を行って兵馬の訓練とした。
雋不疑、陰謀を摘発する
- 郎中の韓義らはたびたび諫めたが、旦はこれを聞かず、韓義ら十五人を殺した。
- しかし缾侯成が沢らの謀反計画を知って雋不疑に密告したため、八月、雋不疑は沢らを逮捕して朝廷に報告した。
- 天子は大鴻臚丞に命じて取り調べを行わせたところ、燕王旦まで連座の形で名が挙がった。
- ただし旦は至親であったため不問とされ、沢らだけが処刑された。
- 雋不疑はその功で京兆尹に任じられた。
雋不疑の治績
- 雋不疑は威厳と信用を兼ね備え、囚人の記録を点検して冤罪があれば救済した。
- 彼の母は、帰宅するたびに何人を助けたかを尋ね、助けた者が多いと喜び、まったく救済がないと怒って食事もしなかった。
- そのため雋不疑の行政は厳格でありながら、むやみに残酷ではなかった。
金日磾の死
- 九月丙子、秺敬侯の金日磾が亡くなった。
- もとは武帝の遺詔により、金日磾・上官桀・霍光の三人は、馬何羅らの反乱を防いだ功により封侯されることになっていた。
- だが金日磾は、幼い天子のもとで自分だけが封侯されるのを辞退し、霍光らもこれにならって受けなかった。
- 病が重くなると、霍光が奏請して初めて印綬を授けられたが、金日磾は寝たままこれを受け、その翌日に死去した。
- 日磾の二子、金賞・金建はいずれも侍中で、天子とほぼ同年齢で親しく仕えていた。
- 金賞が父の爵位を継ぎ、二人とも印綬を帯びるようになると、天子は二人とも侯にしてよいではないかと霍光に言った。
- 霍光は、先帝の定めでは功がなければ封侯できないと答え、天子もこれを認めて取りやめた。
閏月:巡察使の派遣
- 閏月、故廷尉の王平ら五人が節を持って郡国を巡察し、賢良を推挙させ、民の疾苦や冤屈、失職者の有無を調べさせた。