資治通鑑漢紀十五 孝昭皇帝上 始元 六年 前81年

春:塩鉄・酒榷・均輸をめぐる論争

  • 二月、有司に命じて、郡国から推挙された賢良・文学に、民の苦しみや教化の要点を問わせた。
  • 彼らは、塩鉄・酒の専売・均輸官を廃して、国家が天下と利を争うのをやめ、倹約を示してこそ教化が興ると答えた。
  • これに対し桑弘羊は、これらは国家の大事業であり、四夷を制し辺境を安んじ、財用を満たす基盤だから廃止できないと反論した。
  • ここに有名な「塩鉄の議」が始まった。

蘇武の帰還

  • かつて北海に移された蘇武は、配給が絶えると野鼠の穴に貯えられた草の実を掘り出して食べ、漢節を杖に羊を牧し、その旄は尽きるまで持ち続けた。
  • 李陵は旧友としてたびたび蘇武を説得し、単于は誠意をもって迎える、漢へはもう帰れない、家族の消息も知れないのだから無益に苦しむなと勧めた。
  • さらに、武帝晩年には大臣が無罪で滅ぼされることも多く、蘇武が忠義を尽くす相手はもはやないと揺さぶった。
  • しかし蘇武は、自分は漢に育てられた臣であり、君に対する節義は子が父に尽くすのと同じで、死んでも悔いはないと言って屈しなかった。
  • 李陵はその誠を見て嘆息し、自分と衛律の罪は天に通じるほど重いとして涙を流し別れた。
  • 壺衍鞮単于が立つころになると、閼氏の出自の正統性が弱く、国内が離反気味となって漢の侵攻を恐れたため、衛律は和親を勧めた。
  • 漢が蘇武らの返還を求めても、匈奴は死んだと偽ったが、のちに漢使が来た際、匈奴にいる常恵が密かに使者へ会い、「上林で射た雁の足に蘇武の所在を書いた帛書が結ばれていた」と単于に伝えよと教えた。
  • 使者がその通りに責めると、単于は驚いて蘇武らが生きていることを認め、蘇武および馬宏らを帰還させた。
  • 李陵は送別の酒宴を開き、蘇武の名声と功績は古今に比類ないと讃え、自分はもはや母も失い、一族も誅されたので帰国できない、せめて蘇武に真意だけは知ってほしいと泣いた。
  • 蘇武の配下で匈奴にいた者たちのうち、生還してともに帰ったのは九人だった。
  • 京師に着くと、蘇武は太牢を捧げて武帝の園廟を拝し、典属国に任ぜられ、銭二百万・公田二頃・宅一区を賜った。
  • 彼は匈奴に十九年とどまり、壮年で出て行って帰るころには髪もひげも真っ白になっていた。
  • 霍光・上官桀はかつて親しかった李陵を任立政らに招かせたが、李陵は、いったん匈奴に降った自分が漢へ戻れば、降伏と敗軍の罪を再び受けることになる、それは二重の辱めだとして応じず、ついに匈奴で死んだ。

夏秋:専売の一部廃止と休養政策

  • 夏は旱魃となった。
  • 七月、賢良・文学の議を受けて酒の専売官が廃止された。
  • 武帝末年には天下が疲弊し戸口も半減したが、霍光は時務を理解し、徭役と租税を軽くして民を休ませた。
  • このころには匈奴とも和親に向かい、百姓は次第に充実し、文帝・景帝のころの治績がしだいに回復しつつあった。

西南夷への賞

  • 鉤町侯毋波は、邑君長や民を率いて反乱者討伐に功があったため、鉤町王に立てられた。
  • 田広明には関内侯の爵が与えられた。