資治通鑑漢紀十五 孝昭皇帝上 元鳳 元年 前80年

春夏:武都氐の反乱

  • 春、武都の氐人が反乱した。
  • 執金吾の馬適建、龍頟侯の韓増、大鴻臚の田広明が、三輔および太常に属する刑徒を率いてこれを討った。
  • 夏六月、天下に大赦があった。
  • 秋七月乙亥晦、日食が起こった。
  • 八月、改元して元鳳とした。

上官桀・上官安・蓋長公主らの霍光への怨み

  • 上官桀父子はすでに地位も尊く勢力も盛んで、蓋長公主は丁外人に侯位を求め、ついで光禄大夫にも就けようとしたが、霍光は許さなかった。
  • さらに上官桀の岳父で太医監の幸充国が無断で殿中に入った罪で死罪相当となった時、蓋長公主が馬二十匹を出して贖わせ、死を減じさせた。
  • こうした経緯から、上官桀・上官安父子は霍光を深く怨み、蓋長公主もまた霍光を憎んだ。
  • 上官桀は武帝時代から九卿として霍光より上位にあり、のちに父子とも将軍となり、皇后は安の娘で、霍光はその外祖父であるにもかかわらず、政務は霍光が専断していたため、ますます対立した。
  • さらに桑弘羊も、酒専売や塩鉄による富国策の功を誇り、その子弟の官職獲得で霍光に阻まれたことから、怨恨を抱いた。
  • そこで蓋長公主・上官桀・上官安・桑弘羊らは、燕王旦と通じて陰謀を企てた。
  • 燕王旦は孫縱之ら十数人を前後して派遣し、金宝や名馬を蓋長公主・上官桀・桑弘羊らに贈った。

偽の上書と昭帝の聡明

  • 上官桀らはまた、燕王の名で偽の上書を作らせ、霍光が都で郎や羽林を大規模に閲兵した際、天子の行幸同様に道を清めさせ、太官に先行準備をさせたこと、蘇武の長期抑留後に典属国へ任じたこと、大将軍長史の敞を無功で搜粟都尉にし、莫府の校尉人事まで勝手に行ったことなどを並べ、霍光が専権して不穏な企てを持っていると訴えた。
  • そして燕王旦は、自ら符璽を返して宿衛に入り、霍光の不正を監視したいと願い出る形をとった。
  • 上官桀は、霍光が休沐で外出した日にこの上書を宮中から下付し、桑弘羊は大臣たちとともに霍光を追放しようと考えていた。
  • しかし上奏を見た昭帝は、これを下さなかった。
  • 翌朝、霍光は事情を聞いて画室にとどまり参内しなかった。昭帝が大将軍の所在を問うと、上官桀は燕王の告発によって霍光が恐れていると答えた。
  • 昭帝は霍光を召し入れ、冠を取って謝る霍光に対し、冠を着けるよう命じたうえで、この上書は偽りであり、将軍に罪はないと言った。
  • その理由として、問題とされた都郎の校尉任命は長安近郊の広明亭で最近行われたばかりで、まだ十日も経っていないのに、燕王がそれを知るはずがないこと、さらに霍光ほどの立場なら、たとえ不正を働くにしても、たかが一校尉の人事で足がつくようなことはしないはずだと挙げた。
  • この時、昭帝はまだ十四歳であったが、左右の尚書たちは皆驚嘆した。
  • 偽上書の提出者は逃亡し、厳しく追跡された。上官桀らは小事だとして追及をやめさせようとしたが、昭帝は許さなかった。
  • その後も霍光を中傷する者がいると、昭帝は、霍光は先帝から自分を託された忠臣だと怒り、中傷者を処罰すると言い放ったので、上官桀らは以後あえて口にできなくなった。

さらに進む謀反計画

  • 上官桀らは、蓋長公主に酒宴を開かせて霍光を招き、伏兵を置いて殺し、昭帝を廃して燕王旦を天子に迎える計画を立てた。
  • 旦とは駅伝の文書で密に連絡を取り合い、成功後は上官桀を王にし、外では郡国の豪傑数千人を呼応させるつもりであった。
  • 燕王旦は相の平に計画を話したが、平は、以前の劉沢の陰謀が露見したのは彼が軽薄で人を侮ったからであり、今度も左将軍上官桀は軽率、車騎将軍上官安は若く傲慢だから成就しがたく、成功しても燕王に叛く恐れがあると諫めた。
  • しかし旦は、かつて偽衛太子事件の際には長安の民心が太子へ一時に傾いたのだ、自分は武帝の長子であり、天下の信望はもっと厚いのだから心配はいらないと強弁した。
  • のちに旦は群臣へ、蓋長公主からの返書で、大将軍霍光と右将軍王莽だけが障害だとされたが、その王莽も死に、丞相も病んでいるから、ほどなく事は成ると言い、群臣に旅装を整えさせた。
  • 上官安は、燕王を呼び寄せた後にこれを殺し、帝を廃して上官桀を立てることまで考えた。皇后はどうするのかと問われると、大きな獲物を追う犬が小さな兎を気にするものか、ひとまず皇后を尊べばよく、いったん人主の心が移れば平民に落ちることもできないのだ、と応じた。

九月:陰謀発覚と一斉粛清

  • 蓋長公主の舎人の父で、稲田使者の燕倉が計画を知り、大司農楊敞に告げた。
  • 楊敞は慎重すぎて自ら言い出せず、病を理由に退いて、諫大夫杜延年へ伝えた。杜延年はこれを朝廷へ奏聞した。
  • 九月、詔により丞相に命じて中二千石を動員し、孫縱之・上官桀・上官安・桑弘羊・丁外人らを追捕させた。
  • 彼らは宗族もろともことごとく誅殺され、蓋長公主は自殺した。
  • 燕王旦は敗報を聞いて相の平に発兵の可否を問うたが、平は左将軍上官桀がすでに死に百姓も事情を知っている以上、挙兵は不可能だと答えた。
  • 旦は憂い悶え、群臣・妃妾と別宴を開いた。天子は璽書で旦を責め、旦は綬で首をくくって死んだ。后や夫人で後を追った者は二十余人に上った。
  • ただし王太子の建は庶人に落とすだけで赦され、旦には刺王の諡が贈られた。皇后は幼少で陰謀に関与しておらず、しかも霍光の外孫であったため廃されなかった。
  • 庚午、右扶風の王訢が御史大夫となった。

冬:論功行賞

  • 十月、杜延年が建平侯に、燕倉が宜城侯に封じられた。
  • 旧丞相徴事の任宮は上官桀を捕らえた功で弋陽侯となり、丞相少史の王山寿は上官安を丞相府へ誘い入れて捕えた功で商利侯となった。
  • しばらく後、文学の魏相が対策で、燕王に強諫して殺された韓義こそ比干に匹敵する忠節の士であるから、その子を顕彰して人臣の義を天下に明らかにすべきだと論じた。
  • そこで韓義の子の韓延寿が諫大夫に抜擢された。
  • 霍光は、朝廷に先帝以来の重臣が少なくなったとして、光禄勲の張安世を右将軍兼光禄勲に任じて自らを補佐させた。張安世は張湯の子である。
  • また、燕王・蓋長公主・上官氏の陰謀を告発した忠節により杜延年を太僕右曹給事中に抜擢した。
  • 霍光は刑罰の運用が厳しかったが、杜延年がこれを和らげ、上書で便宜を述べる者の可否を平らかに判断して再奏し、適任者は県令などに試用し、不適切な者は罪に問わせた。

匈奴の侵入

  • この年、匈奴は左右部から二万騎を四隊に分けて侵入したが、漢軍はこれを追って九千人を斬首・捕虜とし、甌脱王を生け捕りにした。
  • 漢には大きな損害がなく、匈奴は甌脱王が漢にいることで道案内に使われるのを恐れ、西北へ遠く去って、南下して水草地を逐うこともできなくなった。
  • 漢は人々を甌脱に屯させて守りを固めた。