資治通鑑漢紀十四 世宗孝武皇帝 征和 四年 前89年

春正月~三月:東莱・泰山巡幸と自己反省

  • 武帝は東莱へ行幸し、大海に臨んで神山へ渡ろうとしたが、群臣が諫めても聞き入れなかった。
  • しかし大風が吹き、空は暗く、海水は沸き立つように荒れ、十余日たっても楼船を出すことができず、やむなく帰還した。
  • 二月丁酉、雍県で雲もないのに雷のような音が三度響き、黒く小さな隕石が二つ落ちた。
  • 三月、武帝は鉅定で親耕し、さらに泰山へ赴いて封を修め、庚寅に明堂で祀り、癸巳に石閭で禅を行った。
  • 群臣の前で武帝は、「即位以来の自分の行いは狂い悖り、天下を愁苦させた。いまさら悔いても及ばない。今後、百姓を傷つけ天下を空費する事業はすべてやめる」と述べた。

方士の放逐

  • 田千秋が「神仙を語る方士は多いが、顕著な功験がない。すべて罷免し追放すべきだ」と請うと、武帝はこれを是とした。
  • そこで神人を待ち望んでいた方士たちはことごとく退けられた。
  • 以後、武帝は群臣に対して、かつて方士に惑わされ欺かれたことをしばしば自嘆し、「天下に仙人などあるものか、みな妖妄にすぎない。節食して薬を服し、少し病を減らすくらいがせいぜいだ」と言うようになった。

夏六月:田千秋を丞相に

  • 甘泉へ還幸した。
  • 丁巳、田千秋を丞相とし、富民侯に封じた。
  • 田千秋には特別な才能や戦功はなかったが、一言で武帝を悟らせたため、数か月で宰相となり侯にも封じられた。前後に例のない異例の昇進だった。
  • とはいえ、人となりは敦厚で知恵があり、その在職ぶりは職務にかなっていて、前後の数人の丞相に勝ったと評された。

輪台屯田を退ける詔

  • 先に搜粟都尉桑弘羊らは、輪台の東に五千頃以上の灌漑地があるので、屯田兵を派遣し、校尉三人を置いて耕作を拡大し、張掖・酒泉から騎兵を出して斥候を置き、さらに民を募って移住させ、亭や城を西へ連ねて西域諸国を威圧し、烏孫を助けるべきだと上奏していた。
  • 武帝はこれに対し、過去の誤りを深く述べる詔を下した。
  • まず、国境費用のために民一人あたり三十銭を増課する案は、老弱孤独をいっそう苦しめるものであり、輪台屯田も車師よりさらに西方千余里に及ぶため、かつて開陵侯が車師を攻めた際ですら兵糧欠乏で数千人が道死したことを思えば、とても採るべきでないとした。
  • また、以前に軍候弘が「匈奴が馬を縛って城下に置き、『秦人よ、馬をくれ』と馳せて挑発した」と上書し、これを丞相・御史・二千石・郎・文学生・郡属国都尉にまで示したところ、皆が匈奴は自ら馬を縛ったのだから吉兆だとし、方士・太史・望気・太卜・龜蓍もみな吉と占い、「時は再び来ない」「鬴山で必勝」と言い、諸将の卦では李広利が最吉であったため自ら出征を決したのだと振り返った。
  • しかし、実際には計略も卦兆もみな外れた。重合侯がのちに聞き出したところでは、あの馬を縛る行為は匈奴の呪詛にすぎなかった。
  • 武帝はさらに、匈奴は「漢は大国だが飢え渇きに弱い。狼一匹を失えば羊千匹を走らせるようなものだ」と言っていたとし、李広利の敗軍と将士の戦死・離散は今なお心の痛みだと述べた。
  • したがって、輪台に遠く田を開き、亭隧を起こすのは天下を騒がせるだけで、民を優遇する政策ではないとして退けた。
  • また、大鴻臚らが囚徒を募って匈奴使者を送り込み、単于刺殺で封侯の賞を示して怨みを報じようと議したことも、「覇者でさえ恥じてしないことだ」と却下した。匈奴は漢の降者を厳しく身体検査し、文書や兵刃を携えていないか調べるので、計略は実行できないとも述べた。
  • そして、いま必要なのは苛政と暴虐を禁じ、勝手な賦課をやめ、農本を重んじ、馬を養う者の徭役免除令を復活し、武備の不足を補うことだけだと命じ、郡国二千石に畜馬策と辺備計画を上計にあわせて報告させた。
  • これ以後、漢は大規模な外征をやめた。

趙過の代田法

  • 趙過を搜粟都尉とし、代田法を実施させた。
  • その耕耘器具には工夫があり、少ない労力で多くの穀物を得られたため、民はこれを便利だと感じた。

司馬光の評:君主の趣向と人材

  • 司馬光は、天下には常に人材がいるとし、武帝が四夷への武功を好んだ時には勇敢で軽死の士が朝廷に満ち、土地を広げることは思い通りに進んだと述べる。
  • 一方、後年に民力休養と重農へ転じると、趙過のような人物が現れて民に農法を教え、民もその利益を受けた。
  • これは、君主の好みが異なれば士もそれに応じることを示すもので、もし武帝が三王の度量を兼ね備え、商周のような治を興していたなら、三代に匹敵する臣下も得られたはずだと評した。

秋八月:日食

  • 辛酉晦、日食があった。

衛律の讒言と李広利の死

  • 衛律は、単于のもとで李広利の寵遇が自分を上回るのを憎んでいた。
  • ちょうど単于の母閼氏が病んだのを機に、胡巫に「先単于が怒っている。以前から、貳師将軍を得たなら社に祀れと言っていたのに、なぜまだ実行しないのか」と言わせた。
  • そこで匈奴は李広利を捕えた。李広利は「自分が死ねば、必ず匈奴は滅びる」と罵ったが、そのまま社に屠って祀られた。