資治通鑑漢紀十四 世宗孝武皇帝 征和 三年 前90年
春正月・三月:再度の対匈奴遠征
- 武帝は雍に行幸し、安定・北地に至った。
- 匈奴が五原・酒泉に侵入し、二人の都尉を殺した。
- 三月、李広利が七万を率いて五原から、商丘成が二万を率いて西河から、馬通が四万騎を率いて酒泉から出撃し、匈奴を討った。
夏五月:赦令と匈奴の退避
- 天下に赦令が出された。
- 匈奴の単于は漢軍の大挙を聞くと、輜重を北の郅居水へ移し、左賢王に人民を余吾水の向こう六、七百里の兠銜山へ移させ、自らは精兵を率いて姑且水を渡った。
各軍の進退
- 商丘成の軍は追邪径まで進んだが、匈奴本軍を見つけられずに引き返した。
- 匈奴は大将と李陵に三万余騎を授けて漢軍を追わせた。漢軍は九日転戦して蒲奴水に至り、匈奴は不利となって退いた。
- 馬通の軍は天山まで進み、匈奴の偃渠が二万余騎で邀撃したが、漢軍が強いのを見て退き、馬通も戦果なく帰った。
車師攻略
- 漢は、車師が馬通軍の帰路を遮ることを恐れ、開陵侯成娩に楼蘭・尉犁・危須など六国の兵を率いさせ、共同で車師を包囲させた。
- 王と人民をことごとく捕えて帰還した。
李広利の北進
- 李広利が塞外へ出ると、匈奴は右大都尉と衛律に五千騎を与え、夫羊句山の険隘で漢軍を邀撃させた。
- 李広利はこれを破り、勢いに乗じて范夫人城まで追撃した。匈奴は逃げて敢えて対抗しなかった。
劉屈氂・李広利の謀と破綻
- 出征の当初、丞相劉屈氂が渭橋まで祖道して李広利を送った。
- その際、李広利は「早く昌邑王を太子に立てるよう計らってほしい。帝となれば君侯に何の憂いがあろう」と語り、劉屈氂もこれを承知した。
- 昌邑王は李夫人の子であり、李広利の妹の子でもあった。また李広利の娘は劉屈氂の子の妻で、両家は利害を同じくしていた。
- ところが内者令郭穰が、丞相夫人が武帝を呪詛し、李広利とともに昌邑王即位を祈ったと告発した。調べると大逆不道にあたり、六月、劉屈氂は厨車に載せられて市中を引き回され、東市で腰斬となり、妻子は華陽街で梟首された。
- 李広利の妻子も捕えられた。
李広利の降伏
- 李広利はこの報を聞いて憂懼した。従軍していた掾の胡亜夫も罪を避けて軍中におり、「家族はすべて役人の手中にある。帰って意にかなわなければ獄にかかるだけだ。いま郅居以北に行けば、なお生路がある」と説いた。
- 李広利は功を求めて深入りし、郅居水に至ったが、匈奴本隊はすでに去っていた。
- 護軍に二万騎を率いさせて郅居水を渡らせると、左賢王・左大将の二万騎と遭遇し、一日戦って左大将を斬り、匈奴に大損害を与えた。
- しかし軍長史と決眭都尉の雷電は、「将軍は異心を抱いて兵を危地に投じ、功を求めすぎて必ず敗れる」と見て、李広利を捕えて抑えることを謀った。
- 李広利はこれを知って長史を斬り、軍を返した。
- 燕然山に至ると、単于は漢軍の疲労を見抜き、自ら五万騎で遮撃した。夜には漢軍前面に深い塹壕を掘り、後方から急襲して軍を大混乱に陥れた。
- 李広利はついに単于に降り、単于は漢の大将として重んじ、娘を妻に与え、衛律以上の待遇を与えた。だがそのために李広利の宗族は全滅した。
秋:蝗害と反乱未遂
- 秋、蝗害があった。
- 旧城父令の公孫勇が客の胡倩らと謀反を企てた。胡倩は光禄大夫を名乗り、賊捕の命を帯びたと偽った。
- 淮陽太守田広明がこれを察知して兵を発し、捕えて斬った。
- 公孫勇は繡衣を着て四頭立ての車に乗り、圉県へ至ったが、県の守尉魏不害らに誅された。魏不害ら四人は侯に封じられた。
太子冤罪の認識と田千秋の抜擢
- 巫蠱をめぐる告発は多くが事実でないと判明し、武帝も太子が江充に追い詰められて恐れていただけで、他意はなかったことをかなり理解し始めた。
- そのとき高寝郎の田千秋が急変を奏上し、「子が父の兵を弄したなら笞刑が妥当であり、天子の子が過って人を殺したとして何の重罪であろうか」と太子の冤を訴えた。さらに白頭の老人に夢で教えられたと述べた。
- 武帝は大いに感悟し、「父子の間で言いにくいことを、そなたははっきり言ってくれた。これは高廟の神霊が私を教えるためお前を使ったのだ」と言い、その場で田千秋を大鴻臚に抜擢した。
- あわせて江充一族を族滅し、蘇文を横橋の上で焼き殺し、泉鳩里で太子に刃を加えた者も、当初は北地太守にしていたが、のちにこれも族滅した。
- 武帝は太子に罪がなかったことを憐れみ、思子宮を建て、湖に帰来望思之台を作って、その魂が帰るのを望んだ。天下の人々はこれを聞いて悲しんだ。