資治通鑑漢紀十四 世宗孝武皇帝 後元 元年 前88年
春正月・二月:巡幸と昌邑哀王の死
- 武帝は甘泉へ行幸し、泰畤で郊祀を行い、さらに安定へ赴いた。
- 昌邑哀王髆が死去した。
- 二月、天下に赦令が出された。
夏六月:商丘成の自殺
馬何羅の反逆
- 侍中僕射の馬何羅は江充と親しかった。衛太子の乱の際、弟の馬通が功により重合侯となったが、その後に武帝が江充の一族や党与を滅ぼしたため、馬何羅兄弟も連座を恐れた。
- そこで何羅は反逆を計画したが、侍中駙馬都尉の金日磾はその志に常ならぬものを感じ、ひそかに行動を見張っていた。何羅もまた日磾に感づき、なかなか決行できなかった。
- あるとき武帝が林光宮に行幸し、日磾が少し病んで宿舎に臥していた。
- 何羅は通・安成らとともに、詔を偽って夜中に出て使者を殺し、兵を発しようとした。
- 翌朝、武帝がまだ起きていないうちに、何羅は外から入ってきた。日磾は厠へ向かおうとして胸騒ぎを覚え、急いで入って戸の内側に座して様子をうかがった。
- ほどなく何羅は白刃を袖にひそませて東廂から現れた。武帝は日磾の顔色が変わるのを見て奥へ走ろうとし、宝瑟につまずいて倒れた。
- 日磾は何羅に飛びついて取り押さえ、「馬何羅が反した」と叫んだ。左右は刃を抜いたが、武帝は日磾に当たるのを恐れて斬るなと命じた。日磾は何羅を殿下へ投げ落とし、捕縛させた。
- 厳しく取り調べると、すべて罪を認めた。
秋七月:地震と燕王旦への不信
- 地震があった。
- 燕王旦は、自分こそ序列上太子となるべきだと考え、入って宿衛したいと上書した。武帝は怒ってその使者を北闕で斬った。
- さらに亡命者を匿った罪にも問われ、良郷・安次・文安の三県を削られた。
- 武帝はこれによって燕王旦を嫌うようになった。
- 旦は弁舌と学問に優れ、弟の広陵王胥は勇力があったが、どちらも行動が法度を外れ過失が多かったため、武帝は立てようとしなかった。
弗陵擁立の布石と鉤弋夫人の死
- このころ鉤弋夫人の子・弗陵は数歳で、体格が大きく聡明であったため、武帝は特に愛し、立てたいと考えた。
- だが年が幼く、母も若かったため、すぐには決めず、先に大臣で補佐できる者を選ぼうとした。
- 群臣を見回して、奉車都尉・光禄大夫の霍光が忠厚で大事を任せられると判断した。
- 武帝は黄門に周公が成王を背負って諸侯に朝する図を描かせ、霍光に賜って心中を示した。
- その数日後、武帝は鉤弋夫人を譴責した。夫人が簪や耳飾りを外して叩頭すると、武帝は「引いて去れ、掖庭獄へ送れ」と命じた。
- 夫人が振り返ると、武帝は「早く行け、お前は生きられない」と言い、ついに死を賜った。
- その後、武帝が左右に世評を尋ねると、「子を立てようとしているのに、なぜその母を去るのかと言っています」と答えた。
- 武帝は「それはお前たちには分からない。古来、国が乱れるのは主が幼く母が壮んなためだ。女主が独居すれば驕り、淫乱し、誰も制し得ない。呂后を知らぬのか。だから先に去らせねばならぬのだ」と述べた。