資治通鑑漢紀十三 世宗孝武皇帝 太初 四年 前101年
春 大宛攻略の成功
- 貳師将軍李広利は再度西へ進み、途中の小国は以前の教訓から抵抗せず、食糧を出して迎えた。輪臺だけは降らなかったため、数日攻めてこれを屠った。
- その後は平穏に進んで宛城へ至り、到着兵力は三万人であった。大宛兵が迎撃したが、漢軍は射てこれを破り、敵は城内へ退いた。
- 李広利は郁成を先に攻めると時間を失うと考え、まっすぐ宛城に圧力をかけ、水源を他へ移して城の補給を断ったうえで、四十余日にわたり攻城した。
- 宛の貴人たちは、善馬を隠し漢使を殺した王の責任だとして、王母寡を殺し、その首を持って漢軍に降伏を申し出た。
- 「善馬をすべて差し出し、軍糧も供給する。さもなくば馬を殺し、康居の救兵と内外から挟撃する」との交渉に対し、李広利は城内になお食糧があり、康居も漢軍を恐れて深入りしていないことを見て、和約を受け入れた。
- 大宛は良馬数十匹、中馬以下の牝牡三千余匹を献じ、漢は昧蔡を新王に立てて撤兵した。
郁成王の斬首
- 李広利の出発後、別動隊として王申生が郁成へ向かったが敗死し、のちに上官桀が郁成攻撃を命じられた。
- 郁成王は康居へ逃れたが、漢が宛を破ったと聞いた康居は王を差し出し、上官桀がこれを捕らえた。
- 上邽出身の騎士趙弟は、連行中に逃亡を恐れて自ら郁成王を斬り、その首を李広利に届けた。
貳師将軍の凱旋と論功
- 春、李広利は京師へ帰還した。道中の小国は宛破陣の報を聞き、その子弟を従えて入朝・献上し、人質として差し出す国もあった。
- 軍の損耗は補給難や将吏の貪欲も大きく、戦死だけが原因ではなかったが、武帝は遠征の失敗や過誤を深く問わず、李広利を海西侯、趙弟を新畤侯に封じ、上官桀を少府に任じた。
- 軍功により九卿となった者三人、諸侯相・郡守・二千石となった者百余人、千石以下の昇進者は千余人に及んだ。
- 一方、罪を得て遠征に加わった者たちは、その功を記録されず、ただ罪を免ぜられただけだった。士卒にも一人四万銭相当が与えられた。
楼蘭の帰属と西域支配の進展
- 匈奴は李広利軍の帰路を遮って、西域と漢の往来を断とうとし、とくに楼蘭を利用しようとした。
- しかし任文が生口から事情を聞き出して武帝に報告したため、任文は楼蘭王を捕えて長安へ送った。
- 楼蘭王は「小国が大国の間にあって、両方に属さなければ自立できない。いっそ漢地に移住したい」と訴え、武帝はその言をもっともだとして帰国を許したうえ、匈奴の動静をうかがわせた。
- これ以後、匈奴は楼蘭を完全には信用しなくなった。
- 大宛平定後、西域諸国は震えあがり、漢使は以前よりはるかに任務を果たしやすくなった。敦煌から西の鹽沢方面には亭が立ち、輪臺・渠犁には屯田兵数百を置き、使者校尉が統括して外国往来の補給にあたった。
後年の大宛政変
- 一年余り後、大宛の貴人たちは、昧蔡が漢に媚びて国を屠滅寸前にしたと恨み、これを殺して母寡の兄弟の蟬封を王に立て、その子を漢に入侍させた。
- 漢はこれを受け入れ、贈賂と賞賜で鎮撫し、蟬封は毎年天馬二匹を献ずることを約した。
秋・冬 明光宮と匈奴の新単于
- 秋、明光宮の造営を始めた。
- 冬、武帝は回中に行幸した。
- 匈奴では呴犂湖単于が死に、その弟の左大都尉且鞮侯が単于に立った。
- 武帝は大宛遠征の威を借りてさらに匈奴を圧しようとし、高祖以来の屈辱や単于書の悖逆を挙げ、復讐の大義を説く詔を下した。
- 新単于は漢の報復を恐れ、「自分は漢天子の外孫のようなもの、漢天子は丈人にあたる」とへりくだり、これまで降らなかった漢使もみな返した。