資治通鑑漢紀十三 世宗孝武皇帝 太初 三年 前102年

春正月・夏四月 御史大夫任命と東巡

  • 春正月、膠東太守の延広が御史大夫となった。
  • 武帝は東巡して海上で神仙の徴を求めたが、やはり験はなく、ただ祠官に東泰山を礼祀させた。
  • 夏四月、泰山の封を修め、石閭で禅を行った。

匈奴 呴犂湖単于の即位

  • 匈奴では児単于が死に、年少であったため、その叔父の右賢王呴犂湖が単于に立った。

北辺防衛線の拡張

  • 武帝は光禄勲の徐自為を派遣し、五原塞外数百里、遠い所では千里余りにわたって城障・亭を築かせ、西北の廬朐まで防衛線を延ばした。
  • また游撃将軍韓説と長平侯衛伉をその周辺に駐屯させ、さらに強弩都尉路博徳に居延沢のほとりへ城塞を築かせた。

秋 匈奴の大侵攻

  • 秋、匈奴は定襄・雲中に大挙して侵入し、数千人を殺掠し、二千石級の官を敗走させたうえ、徐自為の築いた城塞・亭障も壊した。
  • さらに右賢王が酒泉・張掖に侵入したが、軍正の任文が救援して奪われた人々を取り返した。もっとも匈奴はなお戦利を保って去った。

睢陵侯張昌の失侯と功臣侯国の衰退

  • この年、睢陵侯張昌は太常として祭祀を怠った罪により国を失った。
  • ここで司馬光は、高祖が封じた功臣侯は一四三人もいたが、戦乱直後は戸口が少なく、諸侯国も小さかったこと、文帝・景帝のころに戸口が回復して侯国は豊かになったことを振り返る。
  • しかし子孫が驕逸に流れて法を犯し、ついにこの時点で残っていた侯はわずか四人だけであったと述べる。

第二次大宛遠征の準備

  • 漢は趙破奴の全滅後、公卿の多くが「大宛遠征をやめて匈奴に専力すべきだ」と主張した。
  • しかし武帝は、すでに兵を出しておきながら小国の大宛を屈服させられなければ、大夏など西方諸国に軽んじられ、良馬も得られず、烏孫や輪臺にも笑われると考えた。
  • そこで反対論を唱えた鄧光らを罪に問い、囚徒・悪少年・辺騎を大規模に動員し、敦煌へ一年余りかけて六万人を集結させた。
  • さらに牛十万、馬三万、驢・橐駝も万単位で集め、兵糧・弩などを十分に備えた。各地には五十余の校尉が設けられ、遠征のため天下は大きく騒擾した。
  • 同時に酒泉・張掖北方には居延・休屠に屯兵を置いて後方を守らせ、また有罪吏・亡命者・贅婿・商人とその家系など「七科」の者を兵役に充てた。
  • 馬の扱いに熟練した者二人を執駆馬校尉に任じ、宛を破った際に善馬を選び取らせる準備も整えた。
  • こうして貳師将軍李広利は再び西征に向かった。