資治通鑑漢紀 世宗孝武皇帝 元光 二年 前133年

冬十月 雍での祭祀と李少君の進言

  • 武帝は雍に行幸し、五畤をまつった。李少君という方士が、竈神をまつる術や、不老長寿・丹砂を黄金に変える法を説いて帝に取り入った。彼は自分の年齢や出自を隠し、諸侯のもとを遍歴して神仙術を語っていたため、人々はいっそう信じて彼に財貨を贈った。
  • 李少君は、人の祖父の代から知っているように言い当てるなど、巧みに人心をつかんだ。彼は、竈を祭れば鬼神を招け、丹砂を黄金に変えれば寿命を延ばせ、さらに蓬萊の仙人に会って封禅すれば不死に近づけると説いた。自分は海上で安期生に会い、瓜ほどもある大棗を与えられたとも述べた。
  • これを受けて武帝は、竈神への祭祀を重んじ、方士を海に派遣して蓬萊や安期生を求めさせ、錬丹・製薬にも力を入れ始めた。
  • 李少君が病死すると、武帝は彼が死んだのではなく姿を変えて去ったのだと思い、燕・斉方面の怪しげな方士が次々に神仙のことを説きに来るようになった。

太一の祠の創建

  • 亳の人の謬忌が、天帝の中でも最尊の神である太一をまつるべきだと上奏した。彼の説では、太一には五帝が補佐として従うという。
  • 武帝はこれを採用し、長安東南郊に太一の祠を建てた。

馬邑の計画をめぐる論争

  • 雁門・馬邑の豪族、聶壹が大行の王恢に対し、匈奴は和親に慣れて油断しているから、利益で誘い出し伏兵で討てば勝てると進言した。
  • 武帝が公卿に諮ると、王恢は「匈奴がしばしば侵入するのは、漢の威を恐れていないからで、討つべきだ」と主張した。
  • これに対し韓安国は、高祖が平城の囲みを解かれた後も私怨で戦を起こさず、和親によって長く利を得てきたことを挙げ、軽挙して遠征すべきでないと反対した。
  • 王恢は、深入りするのではなく、単于を辺境に誘い込み、左右前後を伏兵で固めて捕える策だと説き、武帝はこれを採用した。

夏六月 馬邑の計の実施と失敗

  • 韓安国を護軍将軍、李広を驍騎将軍、公孫賀を軽車将軍、王恢を将屯将軍、李息を材官将軍として、車騎・材官あわせて三十万余を馬邑近くの谷に伏せた。
  • 聶壹は匈奴に逃亡したように見せかけ、「馬邑の令と丞を殺して城ごと降る。財物は思うままだ」と単于を誘った。さらに死罪人を斬って、その首を城下にさらし、長吏を殺した証拠として信じ込ませた。
  • 単于は十万騎を率いて武州塞から入り、馬邑に近づいたが、野に家畜が多いのに牧人が見えないのを怪しんだ。亭を襲って雁門の尉史を捕えたところ、彼から漢軍が伏せていると知らされ、驚いて引き返した。単于はこれを「天の助け」として、その尉史を天王に取り立てた。
  • 漢軍は追撃したが間に合わず、全軍撤収した。代方面から別働隊を率いた王恢も、匈奴の兵が多いと聞いて出撃せず退いた。

王恢の自殺と和親の断絶

  • 武帝は激怒し、王恢を廷尉に下した。廷尉は、敵前で逗留し怯んだ罪にあたるとして死罪相当とした。
  • 王恢は丞相の田蚡に多額の金を贈って助命を求めた。田蚡は太后に「馬邑の策が失敗したからといって王恢を殺せば、匈奴の仇討ちをしてやるようなものだ」と取りなした。
  • しかし武帝は、天下の兵数十万を動かした以上、王恢を処罰しなければ天下に申し開きが立たないとし、王恢は自殺した。
  • これ以後、匈奴は和親を断ち、要地の塞を攻め、漢辺境への侵入・掠奪が絶えなくなった。ただし匈奴はなお漢との関市を欲し、漢もその欲を利用して市場を閉ざしきらなかった。