資治通鑑漢紀九 世宗孝武皇帝 元光 元年 前134年

冬十一月 孝廉挙の開始

  • 冬十一月、初めて郡国に命じて孝廉を各一人ずつ挙げさせた。これは董仲舒の進言を受けたものである。

李広・程不識の辺防

  • 衛尉の李広が驍騎将軍として雲中に駐屯し、中尉の程不識が車騎将軍として鴈門に駐屯した。
  • 二人はいずれも辺郡太守として将兵に名高かったが、治軍の方法は大きく異なっていた。
  • 李広は部伍・行陣を細かく整えず、水草のよい場所に止宿し、兵士の行動にかなりの自由を与え、夜の刁斗も打たず、文書も簡略であった。ただし遠くに斥候を出す備えは怠らず、これでいて敵の害を受けなかった。
  • これに対し程不識は、部曲・行伍・営陣を厳整にし、刁斗を打って夜警し、軍簿を整えたため、兵や吏は夜明けまで休めないこともあったが、こちらもまた敵害を受けなかった。
  • 程不識は、李広の軍はあまりに簡易で、もし匈奴が急襲すれば抑えられまいと言った。他方で、兵士たちが楽に感じて喜んで死力を尽くすことは認めた。
  • 実際、匈奴は李広の将略を恐れ、兵士も多くは李広に従うことを喜び、程不識を苦しんだ。

司馬光の評

  • 司馬光は、軍を出すにあたっては法による統制が不可欠であり、失律して偶然功績を立てても凶であるという『易』の言を引く。
  • 李広ほどの材があってこそ、兵士を各自の便に任せても成り立ったのであり、一般の法にはできない。とくに同時代に別の将と並び立つ場合にはなおさらである。
  • 人は安逸を好んで近い禍に暗いから、李広の簡易を好み、程不識の厳格を恨むようになれば、やがて上に背いて服さなくなる危険がある。
  • したがって、軍事は厳をもって終始するべきで、程不識に学べば大功はなくとも敗れにくいが、李広をまねれば滅亡しない者は少ない、と結論した。

夏四月・五月 赦令と賢良文学の策問

  • 夏四月、天下に大赦があった。
  • 五月、賢良文学を推挙するよう詔し、武帝が自ら策問した。

秋七月 日食

  • 秋七月癸未、日食が起こった。