資治通鑑漢紀 世宗孝武皇帝 元光 三年 前132年
春 黄河の流路変化
- 黄河が流路を変え、頓丘の東南へ流れるようになった。
夏五月 瓠子の決壊
- 五月丙子、黄河は濮陽の瓠子で再び決壊し、鉅野へ注いで淮・泗に通じた。十六郡にわたって水害が広がった。
- 武帝は汲黯・鄭当時に命じて十万人を動員し、堤防をふさがせたが、たびたび決壊して修復は進まなかった。
- このころ田蚡の封邑・鄃は河北にあり、河が南へあふれれば水害を免れ、収穫が増える立場だった。田蚡は「江河の決壊は天意であり、人力で強いて防いでも天にかなうとは限らない」と述べ、望気や術数の者もこれに同調した。
- そのため武帝はしばらく河防工事に本腰を入れなくなった。
田蚡と灌夫・魏其侯竇嬰の対立
- かつて景帝の時、魏其侯竇嬰が大将軍だったころ、田蚡はまだ郎にすぎず、酒席でも子弟のように仕えていた。だが田蚡が貴くなって丞相となると、竇嬰は勢いを失い、客も減った。
- それでも旧燕相の灌夫だけは竇嬰のもとを去らず、竇嬰も彼を厚遇して重んじた。灌夫は剛直で、酒癖が悪く、自分より勢いのある者を軽んじ、しばしば酒席で丞相田蚡に無礼を働いた。
- 田蚡は灌夫一族が潁川で横暴を働いているとして告発し、灌夫と一族は皆、棄市に相当する罪で捕えられた。
- 竇嬰は上書して灌夫を救おうとし、武帝は魏其侯と武安侯を東朝、すなわち太后のいる長楽宮で対決させた。二人は互いに罪をあばき合い、朝臣にどちらが正しいか問うと、汲黯は竇嬰を支持し、韓安国は双方に理があるとし、鄭当時もはじめ竇嬰に理ありと見たが、後には強く言えなくなった。
- 武帝は怒ってその場を去り、太后のもとで食事をとろうとしたが、太后は「自分が生きているのに人々が弟を踏みつけるのなら、死後には食い物にされる」と憤って食事を拒んだ。
- 武帝はやむなく、灌夫を族滅し、有司に命じて魏其侯を審理させ、竇嬰にも棄市相当の罪を定めた。