資治通鑑漢紀 太祖高皇帝 十二年 前195年

冬 陳豨配下の討伐

  • 高祖が邯鄲にいるあいだ、陳豨の将侯敞は一万余を率いて遊撃し、王黄は騎兵千余、張春は一万余を率いて黄河を渡り、聊城を攻めた。
  • 漢の郭蒙が斉兵とともにこれを破った。
  • 太尉周勃は太原道から代地に入り、馬邑が降らないとこれを激しく攻めた。
  • 趙利が守る東垣を高祖は攻略し、地名を真定に改めた。
  • 高祖は王黄・曼丘臣に千金の懸賞をかけ、その部下に生け捕りにさせたため、陳豨軍は総崩れになった。

韓信の謀反発覚と処刑

  • 淮陰侯韓信は病と称して陳豨討伐に従軍せず、密かに陳豨と通じていた。
  • 韓信は、夜中に偽の詔を出して官徒や官奴を赦免したように見せ、彼らを集めて呂后と太子を襲おうと計画していた。配置もすでに決まっていたが、陳豨からの返答を待っていた。
  • ところが、韓信に罪を得た舎人が囚われ、殺されそうになったため、その弟が呂后に密告した。
  • 呂后は蕭何と相談し、陳豨がすでに捕らえられたと偽って列侯・群臣に賀をさせ、蕭何が病身の韓信をも無理に出仕させた。
  • 韓信が宮中に入ると、呂后は武士に捕えさせ、長楽宮の鐘室で斬った。韓信は最期に、蒯徹の策を用いなかったことを悔いた。三族も夷滅された。

司馬光の韓信評

  • 司馬光は、韓信は漢の天下統一に大功があったが、陳で高祖を迎えた時点には反心はなかったと見る。
  • ただし、自ら斉王を求め、固陵の約にも応じなかったことから、高祖が彼を除こうとする気持ちを抱いたのも早い段階からであり、天下平定後に頼みにすべきものはもうなかったと論じる。
  • 市井の打算で自分を利しながら、他人には君子の報恩を期待したことが韓信の失敗だったと総括する。

韓王信の最期、蒯徹の弁明

  • 将軍柴武は参合で韓王信を斬った。
  • 高祖が洛陽へ戻る途中、韓信の死を聞いて、喜びつつもその功を惜しんだ。
  • 呂后から、韓信が蒯徹の策を悔いていたと聞くと、高祖は蒯徹を斉で捕えさせた。
  • 蒯徹は、自分が確かに韓信に謀反を勧めたことを認めつつ、その時は韓信の主君としてのみ見ていたのであり、秦が失った天下は誰が取るかを競う時代だったと弁明した。
  • さらに、天下には帝位を狙った者が数多くいたのであり、力の有無だけの問題だったとして、高祖の怒りをかわした。
  • 高祖は蒯徹を赦した。

代王の立置

  • 高祖は子の恒を代王に立て、晋陽に都させた。
  • 併せて天下に大赦を行った。

梁王彭越の失脚と誅殺

  • 陳豨討伐に際し、高祖は梁に兵を求めたが、梁王彭越は病と称して将に兵を率いさせた。
  • 高祖は怒って使者を送り譴責した。
  • 彭越は自ら謝罪に行こうとしたが、将の扈輒は、今から行けば捕えられるから反乱を起こすべきだと勧めた。彭越は従わなかった。
  • その後、梁の太僕が罪を得て逃亡し、彭越と扈輒の反謀を告発した。高祖は使者を送って不意に彭越を逮捕し、洛陽に幽閉した。
  • 有司は反乱の形跡は十分として法通りに論罪を求めた。高祖は死刑を免じて庶人とし、蜀の青衣に流した。
  • だが西へ送られる途中、鄭で呂后と出会い、彭越は泣いて無罪を訴え、故郷の昌邑へ移してほしいと願った。呂后はいったん承諾し、洛陽へ戻って高祖に、豪勇な彭越を蜀へ流せば後患になるから殺すべきだと進言した。
  • さらに呂后は自分の舎人に彭越の再謀反を告発させ、廷尉王恬開の上奏によって三族ともども誅殺された。
  • その首は洛陽でさらされ、弔う者は捕えるよう命じられた。

欒布の直諫

  • 梁の大夫欒布は斉から帰り、彭越の首を見て祠して哭したため、捕えられて高祖の前に引き出された。
  • 鼎に投げ込まれそうになりながら、彭越は楚漢戦争中に梁地から漢に味方して大功を立て、垓下でも不可欠だったと述べた。
  • それにもかかわらず、兵を徴して病により出なかっただけで疑い、細事をもって大功臣を滅ぼしたため、功臣たちは皆自らの身を危ぶむようになると諫めた。
  • 高祖はこれを聞いて欒布を赦し、都尉に任じた。

皇子の封建

  • 丙午、皇子恢を梁王に立てた。
  • 丙寅、皇子友を淮陽王に立て、東郡・潁川郡の一部をそれぞれ梁・淮陽に加えた。

春四月―五月 南越王趙佗の正式承認

  • 春四月、高祖は洛陽から移動した。
  • 五月、秦の旧南海尉趙佗を南越王に立てる詔を出し、陸賈を派遣して璽綬を授け、割符を与え、百越を鎮めて南辺の患いとならぬよう求めた。

趙佗の自立の経緯

  • もともと秦末、南海尉任囂は病重くなると龍川令趙佗を呼び、天下の乱を見越して新道を断ち、兵を集めて自保し、番禺を拠点として自立できると説いた。
  • 任囂の死後、趙佗は南海尉の職務を引き継ぎ、諸関に文書を出して道を閉ざし、秦の長吏を排除して自党を据えた。
  • 秦滅亡後には桂林・象郡をも併合して、南越武王を自称した。

陸賈の説得と趙佗の服属

  • 陸賈が赴くと、趙佗は蛮夷風の髻で足を投げ出して応対した。
  • 陸賈は、趙佗は中国の人であり、祖先の墳墓も真定にあるのに、華夏の礼を捨てて漢と対等の敵国であろうとするのは危険だと説いた。
  • さらに、漢王が項羽を滅ぼし五年で海内を統一したのは天命であり、今は百姓の疲弊を憐れんで兵を休めているだけで、本気で討てば越が趙佗を殺して降伏するのは手を返すほど容易だと脅した。
  • 趙佗は驚いて起ち上がり、礼を失していたと謝罪した。
  • その後、自分と蕭何・曹参・韓信、あるいは自分と皇帝とではどちらが賢いかを陸賈に問うたが、陸賈は、中国の版図・人口・富・統治の規模は南越と比べものにならないと答えた。
  • 趙佗は大笑いしてなお自負を見せたが、最終的には陸賈を厚遇し、漢への称臣を受け入れた。
  • 陸賈は帰朝して太中大夫に任じられた。

陸賈『新語』

  • 陸賈はたびたび進み出て詩書を引いて説いた。
  • 高祖は「馬上で天下を取ったのに、なぜ詩書が要るのか」と言った。
  • 陸賈は「馬上で取れても、馬上では治められない」と答え、湯武は武で取っても順で守ったこと、秦が極端な武断で滅んだことを挙げた。
  • 高祖は恥じ入り、秦が天下を失った理由、自分が天下を得た理由、古来の成敗を書かせた。
  • 陸賈は大意十二篇を著し、左右が万歳と呼んだので、その書は『新語』と名づけられた。

高祖の病と樊噲の直入

  • 高祖は病となって人に会うのを嫌い、禁中で臥して門番に群臣を入れさせなかった。
  • 絳侯周勃・灌嬰らも十余日入れなかったが、舞陽侯樊噲が門を押し開けて入り、群臣も続いた。
  • 高祖は宦官を枕にして臥していた。樊噲は涙ながらに、創業の頃の雄々しさと、今や重病のまま宦官一人と閉じこもるありさまを対比し、趙高の例を引いて諫めた。
  • 高祖は笑って起き上がった。

秋七月 英布の反乱

  • 淮陰侯が死に、彭越が誅されてその肉が醢にされ諸侯に送られると、淮南王英布は深く恐れた。
  • ひそかに兵を集め、周辺の動静をうかがっていた。
  • 彼の愛姫が医者の家で療養していたが、その家が中大夫賁赫の向かいにあり、賁赫が贈り物をして姫と酒を飲んだため、英布は反乱の相談だと疑った。
  • 英布は賁赫を捕えようとし、賁赫は急いで長安へ行って、英布に反意の兆しがあり、まだ発していないうちに討てると上書した。
  • 高祖が蕭何に相談すると、蕭何は怨みによる虚言かもしれないとし、賁赫を拘束して密かに調べるよう求めた。
  • 英布は、賁赫が罪を得て逃げたうえに告発したと知って疑いを深め、漢からの使者も何らかの裏付けを得たので、賁赫の家族を族滅して挙兵した。
  • 反書が届くと、高祖は賁赫を赦して将軍にした。

薛公の分析と高祖親征決定

  • 高祖が諸将に策を問うと、皆「ただちに討てばよい」と軽く見た。
  • 汝陰侯夏侯嬰は旧楚の令尹であった薛公に意見を求めた。薛公は、彭越・韓信が相次いで殺されたため、英布が自分にも禍が及ぶと疑って反したのだと見抜いた。
  • さらに、英布が上策に出れば山東の大半は漢のものではなくなり、中策でも勝敗は読めないが、下策に出れば漢は安泰だと述べた。
  • そのうえで、英布はもと驪山徒であり、万乗の主となっても自分の利しか考えず、遠大な計略はないから、下策に出るだろうと論じた。
  • 高祖はこれを喜び、薛公を千戸に封じ、皇子長を淮南王に立てた。

太子出征論の停止

  • この時、高祖は病があり、太子を英布討伐に向かわせようとした。
  • 太子の客である東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生の四人は、太子が戦で功を立てても地位は増さず、失敗すれば禍になると考え、建成侯呂釈之に呂后への働きかけを勧めた。
  • 呂后は夜に高祖へ泣いて訴え、英布は猛将であり、諸将はみな高祖の旧友・同輩だから、太子を将とすると誰も本気では動かず、敵も勢いづくと説いた。
  • 高祖は、結局自ら兵を率いて東征することにした。

留侯張良の進言と太子守備

  • 群臣は覇上まで高祖を見送った。
  • 留侯張良は病をおして曲郵まで来て、楚人は素早く鋭いので正面から争わぬよう勧め、太子を将軍として関中兵を監督させるよう進言した。
  • 高祖は、張良には病床からでも太子を補佐させた。
  • 叔孫通が太傅、張良が少傅として太子を支えた。
  • 上郡・北地・隴西の車騎、巴蜀の材官、中尉卒三万人が覇上に集められ、皇太子の衛軍とされた。

英布の進撃

  • 英布は、高祖は老いて兵を嫌い、来ても諸将ばかりで、韓信も彭越も死んだ以上怖くないと見て反乱した。
  • まず荊を攻め、荊王劉賈は敗走して富陵で死んだ。
  • さらに兵を奪って淮を渡り、楚を攻めた。楚軍は徐・僮の間で三軍に分かれて互いに救援する陣を取ったが、諫めを聞かず、英布に一軍を破られると残りも散走した。