資治通鑑漢紀 太祖高皇帝 十二年 前194年

冬十月 鄿西の決戦

  • 冬十月、高祖は英布軍と鄿の西で対峙した。英布軍は精強で、その陣立ては項羽軍に似ていたため、高祖はこれを不快に感じた。
  • 両軍が向かい合う中、高祖は遠くから「なぜ苦しんでまで反したのか」と問い、英布は「帝になりたいからだ」と答えた。
  • 高祖は怒って罵り、そのまま大戦となった。英布軍は敗れて淮を渡り、なお幾度か戦ったが利なく、百余人とともに江南へ逃げた。

沛での帰郷と酒宴

  • 高祖は帰途に沛へ立ち寄り、沛宮に酒宴を設け、旧知の父老や婦女・子弟をことごとく呼び寄せて酒を勧めさせた。
  • 酒が進むと自ら歌い舞い、感慨にふけって涙を流した。
  • そして「旅に出た者は故郷を思うものだ。自分は沛公として暴逆を討ち、天下を得た。今後、沛を自分の湯沐邑とし、その民は代々租税・役務から除く」と述べた。
  • 十余日楽しんでから去った。

英布の最期

  • 漢の別将は洮水の南北で英布軍を大破した。
  • 英布はもと番君と婚姻関係があり、その縁から長沙成王呉臣が人を使って、いっしょに越へ逃げようと偽って誘った。
  • 英布はこれを信じて従ったが、番陽の兹郷の民家で殺された。

陳豨の最期

  • 周勃は代郡・鴈門・雲中を平定し、当城で陳豨を斬った。

呉王劉濞の立国

  • 高祖は荊王劉賈に後継がいなかったため、荊の地を改めて呉国とした。
  • 辛丑、兄劉仲の子の劉濞を呉王に立て、三郡五十三城を領させた。

十一月 魯で孔子を祀る

  • 高祖は魯を通過した際、太牢をもって孔子を祀った。

太子廃立論の再燃と叔孫通の諫言

  • 英布討伐から帰ると、高祖の病はさらに重くなり、また太子を廃そうとする気持ちが強まった。
  • 張良が諫めても聞き入れず、張良は病を理由に政務から退いた。
  • 叔孫通は、晋の驪姫の乱や秦の扶蘇不立の例を引き、太子は天下に仁孝で聞こえ、呂后も苦難をともにしたのだから背くべきでないと強く諫めた。
  • さらに、もし嫡長を廃して少子を立てるなら、自分はその場で死を受けてもよいと言った。
  • 高祖は「ただの戯れだ」と弁解したが、叔孫通は「天下を戯れにしてはならない」と迫った。
  • 多くの大臣も反対し、群臣の心が趙王に向いていないと知った高祖は、ついに廃立を断念した。

上林苑開放をめぐる蕭何の収監

  • 相国蕭何は、長安の地は狭く、上林苑には空き地が多いから、民に入って耕作させ、藁も徴収せず鳥獣の餌にすればよいと願い出た。
  • 高祖は激怒し、蕭何は商人から賄賂を受けて民に媚びたのだと疑い、廷尉に命じて拘束させた。
  • 数日後、王衛尉が進み出て、民に便益があるなら請うのが宰相の務めであり、関中を守っていた蕭何が今さら商人の金を利とするはずがない、秦が諫言を聞かなかったのを反面教師にすべきだと諫めた。
  • 高祖は不快そうではあったが、同日中に使者を出して蕭何を赦した。
  • 蕭何が素足で入って謝罪すると、高祖は、自分は桀・紂のような主で、蕭何は賢相だ、自分の過ちを百姓に知らせるためにあえて繋いだのだと述べた。

燕王盧綰の離反

  • 陳豨の乱の際、燕王盧綰は東北方面を攻撃していた。
  • その頃、陳豨は王黄を匈奴に救援要請へ送り、燕王もまた臣の張勝を匈奴へ派遣していた。
  • 匈奴に亡命していた故燕王臧荼の子臧衍は、張勝に対し、燕が長く存続できたのは諸侯の反乱が続いて漢が手を割かれたためであり、今陳豨を急いで滅ぼせば次は燕が狙われる、だから陳豨との戦を長引かせ、匈奴と和しておくべきだと説いた。
  • 張勝はこれをもっともだと思い、匈奴にひそかに陳豨支援を頼んだ。
  • 盧綰は張勝が胡と通じたのではと疑い、一度はその家族を誅しようとしたが、事情を聞いて逆に他人を罪にして張勝の家族を逃がし、張勝を匈奴との連絡役にした。
  • さらに范斉を陳豨のもとに送り、戦を長引かせようとした。
  • その後、陳豨配下の降将の証言から、盧綰が范斉を通じて陳豨と通謀していたことが発覚した。
  • 高祖が使者で召しても盧綰は病と称し、さらに審食其・趙堯らが迎えに行って調べると、盧綰はいっそう恐れて姿を隠した。
  • 盧綰は側近に、異姓王で残っているのは自分と長沙王だけであり、韓信や彭越の誅殺も呂氏の計画だ、今後は呂后が専権して異姓王や大功臣を殺すだろうと語った。
  • この発言が漏れ、審食其が帰って高祖に報告し、さらに匈奴からの降者が張勝が燕の使者として匈奴にいると証言した。
  • 高祖は盧綰の反意を確信した。