春二月 盧綰討伐と燕王の改立
- 春二月、高祖は樊噲を相国として兵を率いさせ、盧綰討伐に向かわせた。
- 同時に皇子建を燕王に立てた。
南海王織の封建
- 詔して、南武侯織もまた粤の一族であるとして南海王に立てた。
高祖の負傷悪化と医師拒絶
- 高祖は英布討伐の時、流れ矢に当たっており、行軍中から病状が重くなっていた。
- 呂后が良医を迎えさせると、医師は治療可能だと述べた。
- しかし高祖は怒って、自分は平民から三尺の剣で天下を取ったのであり、それは天命である、命が天にある以上、名医の扁鵲でもどうにもならないとして治療を受けなかった。
- 黄金五十斤を与えて医師を退けた。
後継の大臣人事
- 呂后が「陛下の後、蕭相国が死んだら誰に代えればよいか」と尋ねると、高祖はまず曹参を挙げた。
- さらに問われると、王陵はよいが少し愚直であり、陳平が補佐すべきだとした。
- 陳平は知略は余るが単独で大任を担うには難があり、周勃は重厚で文辞には乏しいが、劉氏を安んずるのは必ず彼だから太尉にすべきだと述べた。
- その後のことはお前の知るところではない、と呂后にはそれ以上答えなかった。
夏四月甲辰 高祖崩御
- 夏四月甲辰、高祖は長楽宮で崩じた。
- 丁未に発喪し、天下に大赦が行われた。
盧綰の匈奴亡命
- 盧綰は数千人とともに塞下に留まり、高祖の病が癒えれば自ら謝罪できることを期待していた。
- しかし崩御を聞くと、そのまま匈奴へ亡命した。
五月丙寅 長陵に葬る
高祖創業の事業総括
- 高祖は学問を修めた人ではなかったが、明察で通達し、謀を好み、人の意見をよく聞いた。
- 監門の戍卒のような卑しい出身者に対しても、旧知のように接した。
- 入関の際の約法三章の後、天下が定まると、蕭何に律令を整理させ、韓信に軍法を整えさせ、張蒼に暦法・度量衡の法式を定めさせ、叔孫通に礼儀を制定させた。
- また功臣と割符し、丹書・鉄契を金匱石室に納めて宗廟に蔵し、盟誓を残した。
- 日々多事で暇なくとも、その制度設計は大きく遠大であった。
己巳 恵帝即位
- 己巳、太子が皇帝に即位し、皇后は皇太后と尊ばれた。
樊噲誅殺の密詔と陳平・周勃の対応
- 先に高祖の病が重かった頃、樊噲が呂氏に与しており、もし自分が急死すれば趙王如意らを兵で滅ぼそうとするだろうと讒言する者がいた。
- 高祖は怒り、床下で周勃に命を受けさせ、陳平を急ぎ駅伝で送って周勃を樊噲軍の将に代え、軍中に至ったらすぐ権威で樊噲を斬るよう命じた。
- だが二人は道中で相談し、樊噲は旧功が多く、しかも呂須の夫という重臣でもあるので、怒りに任せた命令をそのまま執行すると後悔を招くと考えた。
- そこで軍中で壇を設けて節を示し、樊噲を捕えて檻車で長安へ送るだけにとどめ、周勃が軍を引き継いで燕を平定しに向かった。
- 陳平は途中で高祖の崩を知り、呂須の讒言を恐れて先に急行し、使者と出会って滎陽駐屯の詔を受けたが、さらに急ぎ宮中に入り、ひときわ激しく哭して宿衛を願った。
- 太后は彼を郎中令に任じ、恵帝の傅役としたので、呂須の讒言は行われなかった。
- 樊噲も長安に着くと赦され、爵邑を回復した。
呂太后、戚夫人と趙王如意を狙う
- 太后は永巷に戚夫人を閉じ込め、髪を剃らせ、首枷をはめ、赭衣を着せて臼つきの労役に従わせた。
- さらに趙王如意を召し寄せようとしたが、趙相周昌は、高祖が自分に託した王であり、太后は戚夫人を怨み、趙王もあわせて殺そうとしていると考えて、病と称して出さなかった。
- 太后はまず周昌を召し、その後あらためて趙王を召した。
- 恵帝は太后の意図を知っていたため、覇上まで迎えに行き、同じ宮に入れて自ら抱え、起居も食事も常に一緒にした。
- そのため太后は手を下す機会を得られなかった。