夏五月―秋七月 太上皇の崩御と葬礼
- 夏五月、太上皇が櫟陽宮で崩じた。
- 秋七月癸卯、万年に葬られた。楚王と梁王が弔問に訪れ、葬送にも加わった。
- 万年陵が櫟陽県にあったため、櫟陽の囚人には特赦が与えられた。
戚姫と趙王如意、太子廃立問題
- 戚姫は高祖の寵愛を受け、趙王如意を生んでいた。高祖は太子が仁厚だが柔弱と見て、如意が自分に似ているとして、長安に留め置いて特に愛した。
- 高祖が関東へ出る際には戚姫も同行し、彼女は日夜泣いて如意を太子に立てるよう願った。
- 呂后は年長でしばしば留守を守ったため、高祖との間が疎くなっていた。
- 高祖が太子を廃して趙王を立てようとすると、大臣たちは皆反対したが、なかなか思いとどまらせられなかった。
- とくに御史大夫周昌は、口ごもりながらも「どうしても承服できない」と廷中で強く争った。高祖は笑って受け流したが、呂后はこれを隣室で聞き、後で周昌にひざまずいて礼を述べた。
趙王如意のため周昌を相に置く
- 高祖は、自分の死後に趙王如意が無事でいられないのではないかと心配した。
- 符璽御史の趙堯は、呂后・太子・群臣が畏れている人物を趙国の相に据えるべきだと進言し、周昌を推した。
- 高祖は周昌を趙国の相とし、趙堯を御史大夫に昇進させた。
韓信の陳豨への謀議
- かつて高祖は陽夏侯陳豨を相国として、趙・代の辺兵を監督させていた。
- 陳豨が赴任に際して淮陰侯韓信に別れを告げると、韓信は人払いして彼の手を取り、天下の精兵を握り、皇帝の信任も厚い陳豨がもし疑われれば、高祖はやがて自ら討ちに来るだろう、その時に自分が内応すれば天下を取れると密かに勧めた。
- 陳豨は韓信の才能を知っていたので、その言葉を信じた。
陳豨の勢力拡大と反乱への伏線
- 陳豨は士を養うことを信陵君に倣い、帰省の際には賓客千余乗が付き従うほどで、邯鄲の官舎も満ちるほどだった。
- 趙相周昌は高祖に会い、その賓客の多さと外で兵権を握り続けている危うさを訴えた。
- 高祖が調査させると、代にいる陳豨の賓客には違法行為が多く、陳豨にも連座する事柄が次々と出てきた。
- 陳豨は恐れ、韓王信と結んで王黄・曼丘臣らに説得され、ついに反意を固めた。
九月 陳豨の反乱
- 太上皇の崩後、高祖は陳豨を召したが、陳豨は病と称して来なかった。
- 九月、陳豨は王黄らとともに反し、自ら代王を称して趙・代を侵掠した。
高祖親征と邯鄲での対応
- 高祖は自ら東へ討伐に向かい、邯鄲に至ると「陳豨が邯鄲を拠らず、漳水にもよらないのなら大したことはできない」と言った。
- 周昌は、常山郡二十五城のうち二十城を失ったとして守・尉の処刑を求めたが、高祖は反逆したのでなければ罪ではなく、力が足りなかっただけだとして許した。
- 高祖は趙の壮士から将として使えそうな者を選ばせたが、初めは彼らを罵ったうえで、それでも一人千戸ずつ封じて将軍にした。
- 側近が功もないのに褒賞が早すぎると諫めると、高祖は、今は邯鄲の兵しか頼れず、趙の人々の心を慰撫するための封賞だと説明した。
金で陳豨の将を離反させる
- 陳豨の将校にはもと商人だった者が多いと聞いた高祖は、利で動かせると見て、多くの黄金で買収した。
- その結果、陳豨の将の多くが降伏した。