田単と趙奢、用兵の多寡を論じる
- 田単は趙奢に「帝王の兵は三万で足りる」と少数精鋭を主張したが、趙奢は「呉干の名剣も脆ければ折れる、少数の兵で強国に当たるのは薄い柱で石を叩くようなもの」と反論し、時勢に応じた大軍の必要性を説いた。田単はこれに納得した。
仇赫の秦行きをめぐる策
- 趙が仇赫を秦へ遣り魏冉を相に推挙させようとした際、宋突は「秦が聞き入れなければ樓緩が怨むだろう、慌てず控えめに求めれば、たとえ成らずとも魏冉に恩を売れる」と助言した。
楽毅、燕の存続を図る
- 斉が燕を破った際、趙は楽毅の提案により、河北の地を斉の河東の地と交換して斉を強化しつつ燕を支え、天下の反感を斉に集中させて斉を打倒する策を採った。
藺・離石・祁をめぐる秦との攻防
- 秦が趙の藺・離石・祁を奪った後、趙が人質の子を返す代償の土地を渋ると、秦は激怒して閼与を攻めた。趙奢がこれを救援し、魏の援軍とも呼応して秦軍を大敗させた。
富丁・樓緩の外交路線対立
- 富丁は斉魏との連携を、樓緩は秦楚との連携を推す中、司馬淺は富丁のため趙が斉に順応すれば韓魏が斉から離れ趙に頼るようになると説いた。子欬はまた李兌に、周最を魏の相に据えることで秦魏の関係を弱め趙に有利にする策を献じた。
虞卿、王の判断の誤りを指摘
- 魏が趙に合従を求めたのに趙王が拒んだ際、虞卿は「強国は利を受け弱国は害を受ける。合従の要請を拒むのは、魏だけでなく趙自身も誤っている」と直言した。
平原君、燕攻めを思いとどまる
- 平原君が上党で燕を攻めようとした際、馮忌は「長平の大敗の傷が癒えぬまま燕を攻めれば、疲弊した趙が強国のように振る舞い、逆に秦に漁夫の利を与える」と諫め、平原君はこれに従った。
応侯の教訓
- 平原君は平陽君に、秦の応侯が公子牟に語った「富貴・驕奢・死亡は求めずとも順に訪れる」という戒めを伝え、互いに忘れぬよう約した。
長平後の割地講和論争
- 長平で大敗した趙に秦が六城の割譲を求めた際、樓緩は「割くべき」と述べたが、虞卿は「秦の兵力の限界を見誤り、みすみす秦を助けることになる」と反対した。樓緩は「秦韓魏が親密な関係にあるのに趙だけが疎遠なら毎年城を奪われ続ける」と再反論したが、虞卿は「秦は欲に限りがなく、有限の趙の土地では応じきれない」と説き、代わりに斉と結んで秦への対抗策を取るよう提案した。趙王はこれを容れ、虞卿を斉へ派遣し、樓緩は逃げ去った。
邯鄲の危機と信陵君の救援
- 秦の邯鄲包囲を魏の信陵君が救った際、虞卿は平原君のため益封を求めたが、公孫龍は「功のない親族への加増は国人の反発を招く」と諫め、平原君は加増を辞退した。
長平の戦いと媾和の失敗
- 長平で趙軍が敗れた際、樓昌は即座の講和を勧めたが、虞卿は「秦が趙軍を破る意志がある以上、講和の主導権は秦にある」と反論し、まず楚魏に重宝を贈って合従の構えを見せるべきと説いた。趙王はこれを聞かず鄭朱を秦へ送って講和を図ったが、秦はこれを利用して天下に「趙は既に秦に屈した」と印象づけ、楚魏の救援を断ち切り、結局趙軍は大敗した。
魯仲連、義として秦を帝とせず
- 秦が邯鄲を包囲した際、魏の辛垣衍は趙に秦を帝として尊ぶよう勧めた。魯仲連はこれに強く反対し、「秦が礼義を捨てて天下に帝を称せば、諸侯の重臣は鄒魯の下僕にも劣る扱いを受ける」と説き、鬼侯・鄂侯・斉閔王の悲惨な故事を引いて辛垣衍を翻意させた。
- 折しも信陵君が晋鄙の兵を奪って趙を救援し、秦軍は退いた。平原君が魯仲連に千金を贈ろうとしたが、魯仲連は「人の患いを除いて報酬を取るのは商人のすることだ」と固辞し、去って二度と姿を見せなかった。
張相国への進言
- ある者は張相国に、趙人を軽んじれば趙人からも憎まれると説き、趙の強大さ(常山・河間・代を有し百万の兵を擁す)を軽んじて魏を慕うことの愚を諫めた。以後、張相国は趙人・趙の風俗を褒めるようになった。
鄭同、趙王に武備を説く
- 鄭同は趙王に、隋侯の珠や財宝を持つ者が護衛なしに野宿すれば必ず狙われるように、武備なき国は隣国の侵略を招くと説き、王は武備の重要性を認めた。
建信君と魏牟の冠の喩え
- 建信君が権勢を振るう中、公子魏牟は趙王に「一尺の帛で作る冠さえ専門の職人に任せるのに、天下の統治を素人任せにしてよいのか」と諭し、暗に建信君への過度の信任を戒めた。
復塗偵、竈の夢の喩え
- 衛の霊公が寵臣二人に側近を独占されていた際、復塗偵は「日は万物を照らすが、竈の火は前に立つ者が後ろの視界を遮る」譬えを引き、霊公は寵臣を退けて他の者を登用した。
建信君の用人と失脚
- ある者は建信君に、色による寵愛は衰えるが知略による信頼は長く続くと説き、有能な蓇(人名)を重用するよう勧めたが、蓇は間もなく建信君のもとから逃げ去った。
苦成常の指摘
- 苦成常は建信君に、天下が合従して秦を憎む中、趙だけが河間を得ることに固執するのは、かつて魏が呂遺を殺して天下の信を失った例と同じ愚を犯すことになると警告した。
希寫の弁
- 建信君が文信侯(呂不韋)の無礼を嘆いた際、希寫は「文王・武王も一時は屈辱を受けたが最後には天下を得た」と述べ、権勢のみに頼らず実を積むべきだと諭した。
魏魀、虎の喩え
- 魏魀は建信君に、罠にかかった虎が自ら足を噛み切って逃げる譬えを引き、小さな利に固執して大局を見失わぬよう戒めた。
希卑、内通者を見抜く
- 秦が趙を攻めた際、希卑は「これほど急いだ攻撃は内応者がいる証」と見抜き、王が群臣に意見を求めさせたところ、真っ先に秦との和議(連衡)を説いたのが建信君であったことが露見した。
孝成王の沈着
- 斉人・李伯が代郡守に任じられた後に謀反の噂が立ったが、孝成王は動じず対応し、後に事実が判明した際も冷静に対処した。以後、遠征中の臣下が疑心暗鬼になることはなくなったという。