蘇秦の合従策
- 蘇秦は趙王に、諸侯が結束せず秦の脅威に個別に対処すれば必ず各個撃破されると説き、六国が同盟して秦を包囲する構想を提示した。趙は山東随一の強国でありながら、韓魏という盾を失えば直接秦の脅威に晒されると警告し、六国が洹水で会盟し、互いに攻められた際は他国が兵を出して救援する条約(合従)を結ぶよう勧めた。
- 趙王はこれに深く納得し、蘇秦を武安君に封じて六国との盟約を取りまとめさせた。
蘇子(蘇秦)、秦王のため慎重な用兵を説く
- 蘇子は秦王に、功が大きすぎる者・力を使い尽くした民を用いるべきでないと説き、田単・如耳らが齐楚魏趙を結集させて秦を追い詰めようとした試みを「至って愚か」と評した。斉が全盛期にも楚秦を攻めて疲弊し、結局虚弱化した例を引き、秦が兵を収めて休めるべき時だと説いた。秦王はこれを容れ、以後二十九年間、諸国は互いに攻め合わなかったという。
張儀の連横策と趙の屈服
- 張儀は趙王に、秦兵が十五年出撃を控えていたのは温情ではなく機を待っていたに過ぎないと説き、楚韓魏斉がすでに秦と結んでいる現状で趙だけが孤立していると警告した。趙王は先代の相・奉陽君による専横のため国政の実情を把握していなかったことを述べ、澠池で秦王と会見し、河間の地を割いて秦に事えることとした。
武霊王の胡服騎射
- 趙武霊王は肥義に、旧習を破って胡服騎射を導入する意志を語り、肥義は「大功を成す者は世俗に惑わされない」と後押しした。
- 王は叔父・公子成に胡服採用への協力を求めたが、公子成は「中華の礼を捨てて夷狄の風を真似るのは道に反する」と反対した。王は自ら公子成を訪ね、「服は用を便ずるためのもの、礼は事を便ずるためのもの」と説き、地形に応じた実利(騎射による国防強化、中山への旧怨の雪辱)を説得し、公子成は納得して胡服を受け入れた。
- 趙文・趙造もそれぞれ伝統墨守の立場から諫めたが、王は「古今で礼服は同じではなく、聖人も時に応じて制度を変えた」と論駁し、改革を貫いた。
- 王は王子の傅として周紹に胡服を授け、また遅れて従った趙燕を戒めるなど、胡服の徹底を進めた。牛贊が原陽を騎兵の邑とすることに異を唱えた際も、王は「時勢に応じて兵制を変えるべき」と説き伏せ、最終的に胡地に進出して千里の地を開いた。