西太后演義某夫人入覲し盛宴開き、栄中堂死去し遺言残す(第三十五回 勃夫人入覲開盛宴 榮中堂棄世上遺言)

劉坤一への恤典

  • 西太后は劉坤一の遺折を確認し、優遇の恤典と諡号を議定させた。「忠誠」の諡を賜り、後任には張之洞を充てた。

ロシア公使夫人の来訪と徳菱の通訳

  • 翌日、ロシア公使夫人勃蘭康の入覲にあたり、徳菱が通訳を務めることになった。西洋式の服装で応対したいという徳菱の申し出を西太后は許した。
  • 西太后は珍蔵の真珠を徳菱に見せ、鍵の仕掛けを試したり、宝物自慢をしたりして上機嫌だった。
  • 当日、ロシア公使夫人は仏語で応対し、光緒帝とも挨拶を交わした。西太后は両国の友好を語り、公使夫人を皇后に引き合わせ、栄壽公主らと昼食の席を設けた。宴の後、翡翠を贈って見送った。

西太后の胸中吐露

  • 公使夫人が義和団の件に触れなかったと聞いた西太后は、自らの外交上の失点を気にする様子を見せ、光緒帝への恨み言も漏らした。徳菱はそれを慰めた。

東西陵参拝と南苑滞在

  • 西太后は東西陵に参拝し、帰途南苑に滞在した。かつて皇帝が閲兵を行った晾鷹台に登り、清朝の武功と現状の落差を嘆いた。

光緒二十九年の新年と科挙漸減の上奏

  • 元旦・元宵の祝賀の後、直隷総督袁世凱・湖広総督張之洞が連名で科挙の段階的廃止と学堂振興への転用を上奏し、西太后はこれを裁可した。
  • 二月朔日には満洲の祭神儀礼「吃肉」の行事が行われ、裕太太母子も列席した。

栄祿の死と遺折

  • 西陵参拝の帰途、保定行宮で栄祿の訃報が届いた。西太后は驚き悲しみ、栄祿の遺折を披見した。
  • 遺折には、咸豐年間の粛順らの陰謀発覚への功、両宮垂簾の実現への貢献、光緒帝の親政と戊戌政変での康有為一党への対応、義和団の乱に際して度々諫言したが容れられなかった経緯などが縷々述べられ、地方官吏の精選と民力の涵養を改革の要諦とすべきこと、康熙・乾隆の故事にならい各地を巡幸して民情を知るべきことなどが遺言された。
  • 西太后は栄祿の忠誠を惜しみ、治喪銀三千両・陀羅経被を賜り、太傅・一等男を追贈、「文忠」の諡を与え、賢良祠に祀り、嗣子桂良に爵位を継がせた。国史館に立伝させる異例の厚遇も与えた。

評語

外賓の接待や饗宴は儀礼として意味があっても、それだけで外国の心服を得られるものではなく、国際交渉の実質においては一歩も譲らないのが実情である。ロシア公使夫人の入覲の一件も、徳菱姉妹の才を描くための挿話に過ぎない。一方、後半の栄祿の死とその遺折の詳録は、西太后に忠実に仕えた人物の生涯を裏付ける確かな記録であり、本書の記述が根拠のあるものであることを示している。栄祿の死後、西太后の命運もまた長くは続かない。