西太后演義両全権、露と条約結び、才媛姉妹母と入宮す(第三十三回 兩全權與俄訂約 二慧女隨母入宮)
東三省をめぐるロシアとの紛争
- 義和団の乱に乗じ、ロシア軍は黒龍江に侵入し、将軍壽山は抵抗の末に服毒自尽した。ロシア軍は奉天にも進出し、将軍増祺は降伏同然の対応を取った。ロシアはついに十八万の兵を東三省に駐留させた。
- 北京議和の場でロシアは東三省問題を別途中露間で処理すると主張し、増祺に単独条約を強要した。李鴻章はロシア公使から署名を迫られる中で病を得て死去した。
- その後、劉坤一・張之洞ら東南の督撫と日・英・米の反対もあり、ロシアは強硬姿勢を弱めた。光緒二十八年、疆界画定・住民保護・防務整理・鉄道敷設の四条からなる条約が結ばれ、ロシア軍は三期に分けて撤退することとなった。山海関鉄道も中国に返還された。
- 清朝は事なきを得たと安堵していたが、日本はロシアの動きに警戒を強め、密かに軍備を整えていた。これが後の日露戦争の伏線となる。
宮中の人事と栄壽公主
- 回鑾後、宮中では醇王福晉・端王福晉(新疆へ流刑)・栄祿福晉らの不在が目立ち、栄壽公主だけが引き続き宮中に出入りしていた。
- 公主は珍妃の非業の死や光緒帝廃立の風説に反対の意見を述べるなど、正論を憚らない人物で、西太后も一目置きつつ内心わだかまりを抱いていた。ある時、西太后が密かに作らせた豪華な衣装について公主が節約を諭したところ、側近が漏らしたと疑われる一幕もあった。
裕庚母子の入宮
- 駐仏公使裕庚が帰国し朝見した際、西太后は娘二人(徳菱・容齢=龍菱)を宮中に召すよう命じた。二人は洋行帰りで才色兼備、西洋の見聞も豊かだった。
- 入宮の作法を経て西太后に拝謁し、その聡明さを気に入られた西太后は、二人を宮中に留め自分の側仕えとするよう裕太太に申し渡した。皇后・栄壽公主・慶王の娘(四格格)らとも顔合わせをした。
皇后の御前での洋行談義
- 皇后らとの歓談で西洋の風俗(男女同席の宴会や舞踏会など)が話題になり、龍菱が率直に西洋の実情を弁護したところ、母裕太太にたしなめられる場面があった。
- 徳菱は求めに応じて、外国での中国公使らの失態(西洋式マナーを知らず恥をかいた逸話の数々)を語り、一同の笑いを誘った。
評語
清末の外交は非常に困難であった。国力の裏付けがないまま弁舌のみで交渉を有利に運ぼうとしても、外国が自ら進んで譲るはずがない。それでも朝野は目先の安穏に慣れ、西太后もまた内外の通訳を得て親善を図ろうとするに過ぎなかった。徳菱の口を借りて語られる公使らの失敗談は、当時の外交の実態をよく物語っている。