西太后演義北京陥落で太后出奔し、和議で首謀者処罰す(第三十回 失京師出奔慈駕 開和議懲治罪魁)
京師陥落と脱出
貝子溥倫と大阿哥溥儁が「東直門・斉化門が破られた」と報告に駆け込む。西太后は用意された騾馬車に乗り、光緒帝・皇后・瑾妃らとともに慌ただしく神武門を出て頤和園へ向かった。庶民のなりに変装し、道中で誰何されても「田舎の避難民」と偽るよう車夫に命じている。これは光緒二十六年七月二十一日、いわゆる庚子の変の当日である。
頤和園での小休止
頤和園では満員恩銘が一行を迎え、太后はまず園中の宝物を熱河へ運ぶよう指示した。馬玉昆の兵に護衛させ、端王載漪・慶王奕劻・粛王善耆らも合流する。
逃避行の苦難
一行は西へ向かうが、道中は人家も乏しく食料の調達にも難儀した。李蓮英が村で粗末な茶を求めてきたのみで、光緒帝はその粗末さに口をつけなかった。貫市では市民から麦や豆を分けてもらい、回教の礼拝堂で一夜を明かすなど、宮中の暮らしとは一変した困窮を味わった。大阿哥だけは駝轎に乗せてもらえず、既に廃嫡の含みが見て取れる。
懐来県での歓待
懐来県知県呉永は正装もそこそこに出迎え、食事や着替えを用意して手厚くもてなした。西太后は喜び、その場で光緒帝に命じて呉永を道員に昇進させる勅を書かせた。
講和への動き
軍機大臣王文韶が合流し、京師の情勢と講和の見通しを報告する。太后は慶王奕劻に帰京して列強との和議交渉を命じ、あわせて自らの非を軽く述べるだけの「罪己詔」を発した。
西行と勤王の将
一行は宣化府、大同府を経て太原を目指す。途中、甘粛布政使岑春煊が兵を率いて合流し、以後の護衛を担う。雁門関では光緒帝と束の間の風雅を交わす場面もあった。
毓賢の処分と李鴻章の交渉
太原では山西巡撫毓賢が出迎えるが、太后は「義和団を頼りにしたのは誤りだった、列強の要求で処罰せざるを得ない」と告げる。毓賢はなお義和団を擁護する態度を崩さなかった。慶王・李鴻章からの電報で、列強が「禍首」の処罰を講和の条件としていることが伝えられ、毓賢は巡撫を解任される。李鴻章は上海で情勢を見極めてから北上し、劉坤一・張之洞との協議、榮祿の講和参加も取り決められた。榮祿は京師陥落後、崇綺とともに脱出したが、崇綺は保定で自害した。
罪魁の処分と西安への遷幸
列強との交渉では、罪魁の厳罰と両宮の帰京が講和開始の条件とされたが、太后はどちらも即断できず、陝西巡撫に岑春煊を任じて西安への遷幸を決める。莊王載勳・怡王溥静・貝勒載濂・載瀅らの爵位剥奪、端王載漪の罷免と宗人府での審議、載瀾・英年の処分、趙舒翹の弾劾など、形ばかりの処分にとどめた。折しもクリンデ公使・杉山彬の遺族への弔意も表された。
聯軍の追撃
聯軍はなお山海関・北塘砲台を占拠し、保定を攻略して直隷布政使廷雍を殺害、さらに山西・陝西方面への追撃も噂される情勢が続いた。
評語
本回は西太后の逃避行を仔細に描き出す。禍福は表裏一体、楽極まれば悲しみ生ずというのが古今の理である。奸臣を信じたがゆえに粗衣粗食の逃避行を強いられたのなら、本来なら深く前非を悔い、罪魁を厳しく罰して天下に詫びるべきところ、列強の要求にすら渋々応じ、罷免や譴責といった軽い処分で済まそうとする有様は、臣民を軽んじ権奸を頼みとする姿勢の表れである。婦人が小事に情を捉われて大乱を招く例は往々にしてあり、西太后はその戒めというべきである。