西太后演義権臣専横で北京流血し、珍妃井戸に没す(第二十九回 豺虎擅權燕市流血 鴛鴦折翼宮井埋魂)

袁昶・許景澄の諫言

天津陥落の日、太常寺卿袁昶は吏部左侍郎許景澄と連名で、徐桐・剛毅・啓秀・趙舒翹・裕祿・董福祥らの処罰と、拳匪を庇う親貴の処分を痛切に訴える上奏を行う。西太后は一定の理解を示しつつも、開戦の方針は変えず取り合わなかった。

偽の照会の露見と載漪への叱責

榮祿は、外交団の最後通牒が端王載漪と啓秀が軍機章京連文衝に作らせた偽物であることを突き止め、太后に報告する。しかし太后は「真偽にかかわらず戦は始まった以上続けるほかない」と開き直る。天津陥落の報に接した太后は載漪を厳しく詰り、「お前は我が子を帝位に就けて摂政の座を狙っているのだろう」と痛罵した。一方で榮祿には西瓜や酒を使館へ届けさせ懐柔を図り、李鴻章を直隷総督に任じて呼び寄せる手も打った。

李秉衡の主戦論と偽の詔書事件

長江巡閲中の李秉衡が上京し、太后に主戦を進言する。太后が「殺逐」の詔を出したのに東南の督撫が従わず逆に外国人保護の条約を結んだことを咎めると、李秉衡と剛毅は「袁昶・許景澄が詔の文言を『殺逐』から『保護』に書き換えた」と告発した。太后は激怒し、両名の逮捕・処刑を命じる。

許景澄・袁昶の刑死

載瀾・徐承煜(徐桐の子)監督のもと、両名は正式な罷免手続きも経ぬまま処刑場へ連行される。許景澄は「正法とはあるが革職とはない」と手続きの不備を指摘し、袁昶も権奸への痛烈な批判を最後まで曲げずに刑死した。

徐用儀・聯元・立山の粛清

載漪はさらに、開戦に反対した徐用儀・聯元・立山の三名も除こうと図り、拳匪の頭目に命じて捕らえさせ、趙舒翹の裁可のもと刑部で斬首させた。徐用儀は「洋兵の手にかかるより国法で死ぬほうがまし」と言い残して刑死し、立山は載瀾との私怨も絡んでいたとされる。

李秉衡の出陣と自決

李秉衡は張春発・陳沢霖・夏辛酉の諸軍と義和団を率いて通州へ向かうが、裕祿軍の敗残兵に遭遇し、さらに前線で義和団が真っ先に潰走、部下も浮き足立って戦えず、軍全体が崩壊する。李秉衡は自らの見込み違いを悔いて服毒自殺した。

京師陥落の危機と西太后の動揺

聯軍が京師に迫るなか、榮祿は太后に「端王・剛毅らの処罰と講和交渉」を進言するが、太后は逃避を決意する。使館への停戦交渉も拒否され、砲声が城内に響くなか、太后は熱河ではなく西方への避難を決める。

珍妃の死

出発前夜、光緒帝の妃・珍妃が呼び出される。西太后は「拳匪や兵乱の中で辱めを受けるより死ぬほうがよい」と告げ、珍妃が「陛下は京にとどまるべき」と諫めたことに激怒し、崔太監に命じて井戸へ突き落とさせた。光緒帝は嘆願するも聞き入れられず、悲嘆に暮れた。

評語

袁昶・許景澄の死は西太后の命によるもの、徐用儀・聯元・立山の死は載漪の手によるものだが、太后が袁・許を殺さなければ載漪もあえて三大臣を殺す勇気は持たなかったはずである。つまりいずれも実質的には西太后の罪であり、載漪はその手先に過ぎない。聯軍入京に際し逃走の直前まで珍妃を死に追いやったことも、憎しみゆえの惑乱というほかない。榮祿がたびたび端王・剛毅らの処罰を求めながら容れられなかった事実こそ、庚子の乱の責が西太后にあることを物語っている。