西太后演義江督、特約で民を保ち、総督逃げ天津陥落す(第二十八回 訂特約江督保民 走制軍津門失守)
偽りの戦勝報告と義和団の統率
載漪が宮中に戻り、天津での「大勝」を報告する。西太后は喜び、京中の義和団約一万人を統率させるべく、載勳を歩軍統領に任じ、剛毅・英年・載瀾を補佐に加えるよう命じた。
拳匪の横行と民衆の被害
載勳の下、拳匪は「二毛子(洋人に通じる者)」狩りと称して懸賞金目当てに市中を荒らし回った。良民を教民と偽って掠奪する者まで現れ、官民ともに疲弊し、端王・莊王を呪う声が満ちた。ある朝、端・莊両王が匪徒を率いて寧壽宮に押し入り「瘟皇帝(光緒帝)を殺せ」と叫んだが、西太后自ら「廃立の権は我にあり」と一喝して追い払い、載漪を一年間の俸給停止という軽い処分にとどめた。
御史らの妄言と榮祿・董福祥の対立
御史たちは神仙の加護で夷船が沈むなどと荒唐無稽な上奏を繰り返す一方、太常寺卿袁昶だけは使館攻撃の中止と和議への転換を訴えたが黙殺された。董福祥は榮祿に大砲の提供を迫るが拒まれ、憤慨して西太后に直訴するも「強盗上がりが」と叱責されて退けられる。董は端王邸で愚痴をこぼし、載漪になだめられる。
東南互保と劉坤一の決断
両江総督劉坤一、湖広総督張之洞、両広総督李鴻章、山東巡撫袁世凱らは連名で宣戦に反対する上奏を行うが黙殺される。劉坤一は独自に列強領事と交渉し、上海道余聯沅を通じて八ヶ条の協定(東南互保)を締結、租界と長江・江蘇浙江内地の安全を相互に保障した。これにより東南一帯は戦乱を免れ、後の李鴻章の対外交渉にも活かされることになる。載漪の矯詔にも東南の督撫はほとんど従わず、応じたのは直隷総督裕祿と山西巡撫毓賢のみだった。
聶士成の奮戦と戦死
聯軍は大沽砲台を占領後、西摩爾提督のもと京師を目指すが阻まれて撤退する。前軍統領聶士成は拳匪を嫌い、たびたび裕祿に取り締まりを進言するが容れられず、逆に大沽陥落の責を負わされて処分を受ける。天津防衛を命じられた聶は、拳匪の横暴に苦しみつつも防戦を続けるが、味方の新兵が拳匪と通じて背後から攻撃する事態に遭い、覚悟を決めて出陣、聯軍の陣中で戦死する。同僚の宋佔標も同時に戦死した。朝廷はその功を認めず、通常の恤典を与えるにとどめた。
大師兄曹福田と黄蓮聖母
天津では義和団の頭目・張徳成、曹福田らが跋扈し、裕祿は彼らを上賓として厚遇した。曹福田は放火を天の加護と偽って民心を掌握し、紅燈照の頭目「黄蓮聖母」らも裕祿の歓待を受けた。裕祿は防衛を彼らの神通力に頼り切っていたが、聯軍の攻撃が本格化すると匪首たちは姿を消し、天津は陥落、裕祿は北門から逃走した。
拳匪の末路
聯軍入城後、拳匪や紅燈照は掃討され、黄蓮聖母や三仙姑は捕らえられて処刑、九仙姑は入水した。張徳成は郷民に殺され、曹福田も翌年捕らえられて処刑された。
評語
東南の督撫が独自に列強と保護条約を結んだことを専断と非難する向きもあるが、日清戦争の教訓を踏まえれば、南北が共倒れになるよりも東南の安定を保った劉坤一らの判断は民のためになったというべきである。聶士成の戦死は立場上やむを得ぬもので忠義と認めるべきだが、裕祿が無頼の拳匪頭目を上賓として遇し、淫婦まがいの「聖母」を神聖視するに至った愚昧さは、疆吏としての優劣と当時の朝政の混迷を如実に示すものである。