西太后演義大阿哥、皇統を継ぎ、義和団が京畿を助けんとす(第二十六回 大阿哥入嗣宗祧 義和團旁拯畿輔)

光緒帝の「病」と名医たちの困惑

西太后は変法派を一掃したのち、光緒帝を病気ということにして幽閉した。各省から名医を集めて診察させたが、西太后が帝の脇に座って病状を代弁し、脈だけ形式的に取らせる有様で、医師たちは実態をつかめないまま曖昧な処方を出して逃げるように帰郷した。江蘇の名医陳蓮舫も、賄賂を使ってそそくさと南方へ戻った一人である。

五軍の編成と軍費調達

西太后は廃立を見据え、榮祿に北軍を前・後・左・右・中の五軍に編成させた。聶士成、董福祥、宋慶、袁世凱らにそれぞれ軍を統べさせ、自らの親兵を中軍として南苑に置いた。軍備拡張には莫大な費用がかかり、剛毅を南方へ派遣して税収を搜刮させるなど、財源確保に躍起になった。

端郡王載漪と溥儁

端郡王載漪の福晋は西太后の寵愛を受け、載漪自身も虎神営の統轄を任された。その子・溥儁は芸事に長け、とりわけ京劇の物真似を得意として西太后に可愛がられた。血筋は道光帝の曾孫にあたり本来皇位継承の順位は遠いが、西太后は血の近さより自分の気に入りを優先し、彼を立てようと考え始める。

崇綺らの密議と榮祿への根回し

かつての皇后(同治帝の后)の父・崇綺は、失脚の恨みを胸に徐桐・啓秀と結託し、廃立を画策する上奏文を練り上げる。榮祿の同意を取り付けようとするが、榮祿は南方の総督らの反対(特に劉坤一)を理由に慎重論を唱える。啓秀は伊尹・霍光の故事を引いて説得を試みるが、榮祿はなおも躊躇し、結局崇綺・徐桐は榮祿邸で門前払いされ、やむなく上奏文を李蓮英を通じて直接太后に届けた。

西太后の決意と会議での抵抗

上奏を読んだ西太后は王大臣を集め、光緒帝の不孝と変法派との内通を理由に廃立の意志を示す。徐桐は金・宋の故事(昏徳公の号)を引いて追従したが、協辦大学士孫家鼐だけが拙速を諫め、慎重な選定を求めた。西太后は不快を示しつつも、翌朝改めて帝本人を召して意向を確認させることにした。

帝の同意と嗣立の発表

翌朝、光緒帝は太后の問いに逆らえず「是」とだけ答えた。数日後、儀鑾殿で正式な諭旨が発せられ、実際には「廃立」ではなく、載漪の子・溥儁を同治帝の嗣子(大阿哥)とする形に落ち着いた。これは光緒二十五年十二月二十四日のことである。この裏には、榮祿が「今すぐ廃立すれば列強の干渉を招く。まず大阿哥として宮中で養育し、機を見て帝位に就ければ角が立たない」と進言した経緯があった。

孫家鼐の引退と各方面の反発

諫言した孫家鼐は端王に睨まれることを恐れて病を理由に辞職し、円満に難を逃れた。上海の商人経元善は電報で廃立に強く抗議し、西太后は激怒して逮捕を命じたが、逃げおおせた。日本からも抗議の電報が届き、西太后は康有為・梁啓超の懸賞手配を命じるが、いずれも捕らえられなかった。

大阿哥の宮中生活と義和拳の台頭

溥儁は弘徳殿で崇綺・徐桐の監督下に置かれたが、勉学よりも洋犬遊びに興じる有様だった。父・載漪はこれを機に権勢を強め、多くの大臣が彼にすり寄った。折しも山東巡撫毓賢が、刀や銃弾を通さないという「義和拳」の噂を報告し、載漪はこれを排外・廃立実現の好機と捉えて西太后に上奏するが、西太后は当初「邪術で人を惑わすもの」と一蹴した。しかし朝廷は表向き、義和拳の取り締まりを直隷・山東の督撫に命じるにとどめた。

評語

女性は偏愛しやすく、それが家の乱れ、ひいては国の乱れにつながる。西太后は光緒帝を幼少より育てながらも、載漪の子を寵愛のあまり立てようとした。崇綺・徐桐らも私欲に目がくらみ、荒唐無稽な邪教を義民とみなして排外に利用しようとした。この愚かさは歴史上稀に見るもので、稀に見る愚行が稀に見る大禍を招くことになる。