西太后演義姉妹、讒言で左遷され、剛直の臣強諫し辺境へ流さる(第二十二回 姊妹花遭讒被謫 骨鯁臣強諫充邊)

遼東の敗退続く

  • 清朝は宋慶を各軍の総統とし、劉盛休・依克唐阿らに大連湾・黒龍江方面を守らせたが、九連城・鳳凰城が相次いで陥落し、日本軍は連山関・岫岩州・金州大連湾へと三方に進撃した。
  • 宋慶配下の聶士成と依克唐阿は摩天嶺で日本軍を撃退し、連山関を一時奪回する健闘を見せたが、海城など他の要地は次々失陥した。

旅順の陥落

  • 北洋海軍随一の要港である旅順は、丁汝昌が戦艦の修理を口実に威海衛へ退避し、防備を任された総弁の龔照璵は無能な上、日本軍が迫ると真っ先に船で逃亡。守備兵も総崩れとなり、旅順はあっけなく日本軍に占領された。

光緒帝、西太后に叱責される

  • 相次ぐ敗報に、日講官の文廷式らは恭親王奕訢の起用を光緒帝に進言する。折しも西太后が突然宮中に現れ、光緒帝を厳しく叱責し、開戦を独断で決めたことを咎めた。
  • 西太后は光緒帝に文廷式の上奏を見せ、瑾妃・珍妃が文廷式の教え子であったことを問いただし、二人が戦を煽ったのではないかと疑い、杖罰を命じようとしたが、光緒帝の懇願で撤回。代わりに二妃を貴人に降格し、三か月幽閉するよう命じた。
  • 西太后は奕訢の起用は許したが文廷式は罷免するよう命じ、栄禄を総理衙門に用いるよう指示。また、対外的には和議を進めるよう論した。

光緒帝と皇后の不和

  • 西太后が去った後、光緒帝はこの讒言の出所を那拉后(皇后)ではないかと疑い、詰問した。皇后は否定して涙を流したが、帝と后の間には以後わだかまりが残った。

和議への動き

  • 光緒帝は瑾・珍二妃の降格、恭親王の軍機大臣起用、栄禄の総理衙門入り、文廷式の罷免をそれぞれ実行させた。恭親王は張蔭桓・邵友濂を日本への和議交渉の使者に選び、アメリカの仲介も依頼した。

安維峻の弾劾上奏

  • 御史安維峻は、李鴻章が私財を惜しんで開戦に消極的であり、敵に物資を通じ味方の軍需を妨げていると弾劾する激烈な上奏を行った。あわせて和議が西太后・李蓮英の意向によるものではないかとも触れたが、光緒帝はこれを妄言として安維峻を革職し辺境へ配流した。
  • 他にも荒唐無稽な主戦論の上奏が相次いだが、朝廷内では失笑を買うのみであった。

威海衛の陥落と講和使節の派遣

  • 光緒二十一年正月、劉公島が陥落し北洋艦隊は壊滅、丁汝昌・劉歩蟾・張文宣は服毒自殺した。張蔭桓・邵友濂は全権不足を理由に日本側から交渉を拒まれ、結局光緒帝は李鴻章を全権大臣として日本へ派遣することを決めた。

評語

  • 中国の敗因は人材登用の誤りと軍費不足にあるとし、開戦に消極的だった李鴻章の判断は的を射ていたと評する。文廷式が恭親王起用を進言したことは見識があったが、西太后が頤和園造営による国事の誤りを省みず、光緒帝や二妃にのみ責任を負わせたことを厳しく批判し、安維峻の直言が「太后が事に介入する」との指摘は誣告ではないとする。清朝がここまで衰えたことへの慨嘆で結ばれる。