西太后演義万寿の盛典を準備するも、敗報で大典中止となる(第二十一回 祝慈嘏先期備盛典 聞敗報降旨罷隆儀)
六旬万寿の準備
- 光緒二十年(1894年)十月十日は西太后の六十歳の誕生日にあたり、前年冬から祝典の準備が進められた。
- 新年早々、宗室・外藩の王公や中外の文武大臣に恩賞を加え、宮中の妃嬪も一斉に格上げされた。瑾嬪は瑾妃に、珍嬪は珍妃にそれぞれ昇格した。
- 各省の将軍・督撫に代理二、三名を上京させ、十月一日までに祝賀に参内するよう命じ、四十一名が上京することとなった。西安将軍の栄禄だけは自ら上京を願い出て許された。
栄禄の復権と献上
- 栄禄はかつて西太后の怒りを買い罷免されていたが、東太后との確執が原因で無実の疑いをかけられていたことが判明し、東太后の崩御後に西安将軍に起用されていた。
- 上京した栄禄は、内務府の経費不足を補うための官員捐俸(俸給の一部供出)の議論に加わり、割合を高く提案。結局二割五分に決まったが、栄禄はそれでも足りないとして自ら多額の金銀珍宝を買い求めて献上し、西太后を大いに喜ばせた。歩軍統領の旧職にも復帰した。
熱河行宮の宝物運搬
- 西太后は万寿節を控え、頤和園をさらに華美に飾るため、栄禄に熱河行宮の秘蔵の宝物を運ばせた。一月足らずで百八十台もの車、二万数千点の珍品が運び込まれ、碧玉の桃樹や玉製の人形など、世にも稀な逸品が各殿に配された。
- 頤和園から紫禁城に至る沿道には灯棚や経壇が設けられ、色とりどりの提灯が用意され、楽人には灯舞の稽古をさせるなど、準備は極めて盛大なものとなった。頤和園内には万寿記念の大牌楼も建てられ、僧侶による読経も命じられた。
列仙慶寿図と寵愛の女官たち
- 手持ち無沙汰の西太后は、乾隆帝が考案した双六に似た遊戯「列仙図」を改良し、中国地図を模した「列仙慶寿図」を作らせて楽しんだ。
- このころ最も寵愛を受けていたのは、恭親王の娘で若くして夫を亡くした栄寿公主、西太后の実妹にあたる醇王福晋、栄禄の妻、将来の大阿哥溥儁の母(端郡王載漪の福晋)、そして李蓮英の妹の五人で、彼女たちは西太后から「老仏爺」「老祖宗」と呼ばれることを許された。
対外の小康と朝鮮情勢の暗転
- この年、イギリスに雲南辺境を侵されたが、駐英公使薛福成の交渉で一部を取り戻し、また米国とは華工待遇について協定を結び、国内の反乱もおおむね平定され、李鴻章は海軍の演習が順調と奏上するなど、表面上は平穏であった。西太后も安堵していた。
- しかし光緒二十年五月、朝鮮全羅道古阜県で東学党(首領・崔時亨)の乱が起こり、招討使洪啓勲の軍が敗れて全州が陥落。朝鮮国王は在朝委員の袁世凱を通じて清に救援を求め、李鴻章は葉志超・聶士成らに三営を率いて牙山に駐屯させる一方、日本にも通告した。しかし日本は朝鮮を清の属国と認めず、大島圭介に大軍を率いて派遣した。
開戦への転落
- 東学党は清日両軍の圧力に散り散りとなったが、日本は撤兵に応じず、大島圭介は朝鮮王宮を占拠して朝鮮の自主独立を宣言。清との交渉も決裂し、開戦は不可避となった。
- 李鴻章は消極的だったが、朝廷の主戦論に押され、済遠・威遠・広乙の三艦と商船で援軍を派遣。豊島沖で日本艦隊の待ち伏せに遭い、広乙は損傷、済遠の管帯方柏謙は白旗を掲げて敗走し、高升号は撃沈された。方柏謙は虚偽の戦果を報告し、光緒帝はこれを信じて宣戦の詔を下したが、直後に牙山の敗報が届いた。
牙山・平壌の敗戦
- 葉志超は防備を怠っていたため、日本軍に押されて成歓の聶士成軍も撤退を余儀なくされ、葉志超はさらに平壌へ退いた。平壌には各方面から数十営の清軍が集結したが、葉志超は総統に任命されながら油断して酒宴に興じ、いざ日本軍が迫ると、左宝貴の戦死などを機に狼狽して白旗を掲げて降伏の意を示し、夜に乗じて敗走。退却の途中で伏兵に遭い、多数の死傷者を出した。
黄海海戦の敗北
- 海上でも日本艦隊十二隻が遼東沖に現れ、丁汝昌率いる清国艦隊と交戦(黄海海戦)。超勇・揚威・致遠・経遠・広甲などが次々に沈没・座礁し、致遠の鄧世昌、経遠の林永升は勇戦の末に戦死。済遠の方柏謙は逃走中に揚威と衝突してこれを沈めた。定遠・鎮遠は奮戦して日本艦を損傷させたものの、多勢に無勢で旅順に退却するほかなかった。
慶賀典礼の停止
- 相次ぐ敗報に光緒帝は激怒し、葉志超・丁汝昌らを処分、方柏謙は処刑、李鴻章も花翎・黄馬褂を剥奪された。
- 西太后は懊悩の末、皇帝の名で懿旨を発し、頤和園での万寿受賀の儀を取りやめ、宮中での簡素な祝典に改めるよう命じた。戦時下でこれ以上の奢侈を憚った形をとったものである。
- 光緒帝は再三の慰留を試みたが許されず、万寿節当日は排雲殿での質素な祝賀にとどまった。
評語
- 西太后が乾隆・康熙の盛儀を真似て六旬万寿を盛大に祝おうとしたことを厳しく批判する。国庫が窮乏する中で官吏に俸給の供出を強い、民への搾取を助長したこと、海軍経費を頤和園の造営に流用したために日清戦争で全軍が壊滅したことを指摘し、慶賀を取りやめて倹約に転じても既に手遅れであったと断じる。世人は李鴻章を責めるが、著者はむしろ西太后の責任を問うべきだとし、本回前半の奢侈と後半の敗戦の対比が後世への戒めになると結ぶ。