西太后演義第二十回 神機営、閲兵に供し、祈年殿火災の奇禍起こる (神機營赴園供校閱 祈年殿失火釀奇災)
光緒帝の大婚と后妃冊立
- 光緒十五年正月、光緒帝は葉赫那拉氏を皇后として大婚。桂祥は承恩公に封じられ、諸官にも恩賞が与えられた。あわせて瑾嬪・珍嬪も冊立された。二嬪は幼少より学問に優れ、師の文廷式は科挙で高い成績を収めて重用されたが、これは珍嬪の口添えによるものだった。
西太后の帰政と神機営閲兵
- 二月、西太后は正式に帰政し「欽献」の徽号を加えられ、頤和園へ移った。移御に先立ち、神機営に頤和園での閲兵演習を命じ、陸操・水操(昆明湖での軍船演習)を光緒帝とともに観閲した。醇親王からは北洋海軍の艦艇整備状況(鎮遠・定遠など軍艦九隻)が報告されたが、西太后の関心は形式的な威儀に留まった。
醇親王への尊崇提案と却下
- 河道総督・呉大澂が醇親王(光緒帝の実父)への特別な尊崇の礼を求める上奏を行ったが、西太后はこれを警戒し、かつて醇親王自身が「本生父を過度に尊崇すべきでない」と述べた上奏(豫杜妄論)を改めて公表し、呉大澂の提案を退けた。醇親王は恐懼して再び病と称し引きこもった。
蘆漢鉄路の建議
- 張之洞が北京蘆溝橋から漢口に至る鉄道の建設を提案し、海軍衙門の議を経て採用された。中国の大幹線鉄道の始まりとなった。
祈年殿の落雷・火災
- 中秋の頃、頤和園滞在中の西太后は落雷の音に驚き、まもなく天壇の祈年殿が落雷を受け、さらに大火災に見舞われたとの報が入った。西太后は「一日に二度の凶事」と不安を漏らしたが、翌朝には鎮火の報を受け安堵した。太常寺の管理不行き届きが咎められ、消火に当たった五城の水会は褒賞された。
相次ぐ功臣の死と醇親王の薨去
- 光緒十六年、光緒帝二十歳の祝典が行われた後、曾紀澤・彭玉麟・楊岳斌・曾国荃ら功臣が相次いで世を去った。さらに醇親王奕譞も病篤となり、光緒帝の見舞いの後まもなく薨去した。西太后は嘆きつつも、醇親王を「皇帝本生考」とし諡を賢とするなど手厚く追贈した。
対外情勢と六旬万寿の準備
- この間、英国によるチベット(哲孟雄)進出やパミール高原の英露両国による蚕食があったが、いずれも清側の妥協で決着した。光緒二十年冬、早くも二年後に控えた西太后六旬万寿の祝典準備が命じられた。
評語
垂簾聴政の時代には見られなかった閲兵の儀を、帰政後にわざわざ頤和園で行ったのは、権力がなお自分にあることを内外に示すためであり、後年の新政弾圧・光緒帝幽閉の伏線はすでにここに萌していた。呉大澂の醇親王尊崇提案を即座に退けたのも同じ用心による。太和門・貞度門に続く祈年殿の災いは天の警告とも見えるが、西太后自身はこれを顧みず、頤和園の拡張と六旬万寿の準備にのみ心を砕いた。功臣の凋落・懿戚の逝去が相次ぐ中でなお驕奢を極めたことは、清朝衰退の予兆というべきである。