西太后演義第十三回 皇后冊立し大婚成る、親政開始で垂簾を撤す (冊立中宮大婚成禮 詔諭親政母後撤簾)
大公主の取り成し
- 恭親王の娘・大公主(咸豊帝の養女で榮壽公主)が父の依頼を受けて西太后に取り成しに入り、西太后の怒りは和らいだ。恭親王は胸をなでおろした。
李蓮英の寵愛と洋務の緒
- 安得海を失った西太后は、代わって李蓮英を寵愛するようになった。李蓮英は按摩や独特の結髪の技に長け、西太后の心をつかみ総管の地位に昇った。
- この間、左宗棠・岑毓英が甘粛・雲南の回民反乱を鎮圧する一方、天津教案(フランス領事殺害事件)が起き、曾国藩・李鴻章が交渉にあたり、死刑・賠償金支払いで決着した。
- 曾国藩・李鴻章の建議により同文館・製造局・船政局の設立、留学生派遣、欽差大臣の米国派遣など洋務の緒についたが、倭仁ら守旧派の抵抗も根強かった。
同治帝の大婚
- 同治帝十七歳、西太后と東太后は皇后選定を協議。西太后は員外郎鳳秀の娘(年少)を、東太后は状元・崇綺の娘(年長)を推し、意見が割れた。同治帝自身も崇女を選び、恭親王も年長者を支持したため、崇女(阿魯特氏)が皇后に決まった。
- 同治十一年九月、盛大な大婚の儀が行われ、阿魯特氏が皇后に、鳳秀の娘が慧妃に冊封された。婚儀当夜は風雨が強く、不吉な前兆と見る向きもあった。
- その後、西太后はさらに賽尚阿の娘・崇齢の娘も後宮に入れ、珣嬪・瑜嬪とした。
西太后と皇后の確執
- 皇后は品行方正であったが、西太后はその率直な気性を嫌い、東太后の方が皇后を可愛がった。同治帝の寵愛が皇后に偏っていることを知った西太后は不快感を示し、皇后を疎んじるよう帝に諭したが、かえって帝は皇后への愛情を深め、姑と嫁の溝は広がっていった。
親政と撤簾
- 東太后は「経験は実地でしか積めない」として同治帝への親政移譲を提案。西太后は当初躊躇したが、重臣への輔弼を条件に同意し、親政の諭旨が発せられた。
- 同治十二年正月二十六日を親政の吉日と定めた。折しも日本の副島種臣が使者として来朝し、跪拝の礼を巡って交渉が難航したが、三揖の礼で妥結した。
- 雲南では岑毓英が大理を攻略し回酋・杜文秀を斬るなど各地の反乱平定も伝えられ、両太后は撤簾・親政の諭旨を発して、同治帝が正式に親政を始めた。
評語
本回は両宮皇太后の合伝というべきもの。立后に際し、慈安は年長を、慈禧は年少を推し、一方は正道、一方は私心にもとづくもので、両太后の心術の違いがよく表れている。撤簾親政も慈安が主導し、慈禧は逡巡していた。世評は慈安を褒め慈禧を貶しがちだが、それは慈安が小事には口を出さず、冊立・親政という大事にのみ全力を注いだことの表れである。皇后の悲劇的末路は天命であって人力の及ぶところではなく、慈安の「順受其正」の姿勢がここに見て取れる。