西太后演義第十一回 太平天国平定を賞し、親王を戒め朝綱を正す (平粵酋特頒懋賞 譴親王隱飭朝綱)
両宮垂簾と粛清の余波
- 東太后(慈安)は寡黙で政務に口を出さず、実権は西太后(慈禧)が握った。載垣・端華・粛順の三奸を除いた後、西太后はその一党も罷免・処罰し、「首悪は除いたので余党は連座を免じる」との懿旨を出して寛仁を装った。
- 一方で西太后は、かつて咸豐帝の寵を争った円明園の「四春」たちを「宮中に漢人女性を留め置かない」という祖法を口実に追放。腹心の宦官・安得海に命じて有無を言わさず衣装を剥ぎ取って追い出させた。四春たちのその後の消息は不明で、毒殺・杖殺など諸説あるが確かめようがない。
曾国藩ら東南平定の進展
- 西太后は聴政開始後、曾国藩に江蘇・安徽・江西・浙江四省の軍務を統轄させ、協辦大学士を加銜。沈葆楨を江西巡撫、李鴻章を江蘇巡撫、左宗棠を浙江巡撫に抜擢した。
- 太平天国の悍将たちは各地で捕縛・処刑された(陳玉成は河南で梟首、石達開は成都で処刑、捻匪の張洛行は僧格林沁に、回匪の馬栄は岑毓英に討たれるなど)。
- 同治三年六月、曾国荃が南京を攻略し三日三夜にわたり掃討、太平軍の幹部・兵士十数万が殺された。天王洪秀全はすでに服毒自殺しており、遺骸は掘り出されて焼かれた。子の洪福瑱は脱出し逃亡中であった。
- 朝廷は捷報に大いに喜び、同治帝の名で克復を賀する諭旨を発し、曾国藩を太子太保・一等侯に、曾国荃を太子少保・一等伯に叙するなど、恩賞を厚くした。
洪福瑱の最期と捻匪の猖獗
- 銀牌を配って将士を労った後、官軍は残党掃討を継続。洪福瑱は堵王黄文金と逃走を続けたが、黄文金は浙江淳安で討ち死にし、洪福瑱も江西で席宝田に捕らえられ、南昌で処刑された。これにより太平天国は完全に潰滅した。
- 捻匪の首領・張洛行は捕らえられたが、甥の張総愚がなお任柱・頼文洸と結んで各地を荒らし回った。僧格林沁が追討にあたったが、曹州で捻匪の伏兵に囲まれて全軍潰滅、僧格林沁自身も戦死した。
- 朝廷は改めて曾国藩に直隷・河南・山東三省の討捻を命じ、両江総督は李鴻章に代えた。曾国藩は「四鎮を置いて防剿を兼ねる」という圏地の策を献じ、両太后はこれを認めた。
恭親王の失脚と復権
- 聴政四年、西太后は積年の恨みをほぼ晴らし、妹を醇親王に嫁がせるなど宿願も遂げていた。ある日、両広総督の人事を巡り、西太后が吳棠の登用を主張したところ、恭親王奕訢が資望不足を理由に異を唱えた。
- 西太后は激昂し、恭親王が思わず起立しかけた無礼(清制では臣下が召見の場で無断起立することを禁ずる)を捉えて処罰。議政王の職と要職一切を剥奪する諭旨を出させた。
- 実は吳棠はかつて西太后の恩人であり、内々に引き立ててきた人物であった。恭親王はその事情を知らずに資格論を持ち出して衝突したのである。
- その後、惇親王らの嘆願や給事中・広誠の上奏を受け、王大臣の合議を経て、恭親王は職に復した。恭親王が入朝して深く悔い改める姿を見せると、両太后は諭旨をもって彼を軍機大臣として留任させ、以後は西太后に逆らわぬ従順な臣となった。
文宗の埋葬と安得海の専横の兆し
- 同年秋、文宗(咸豊帝)の葬礼が行われ、元妃の孝徳皇后を合葬。恭親王が典礼を取り仕切り、経費は官員の醵金で賄われた。葬儀後、両太后は恭親王の働きを称え、以前の譴責を記録から外すよう命じた。
- 同治五年の元旦、宮中では連日の祝宴が催された。西太后は芝居好きで、安得海に命じて名優を招き、庫蔵の貢緞で芝居衣装まで作らせるなど贅を尽くした。御史がこれを諫めたが、西太后は「宦官の政治介入は許さない」という建前だけを述べ、実際には安得海への寵愛はますます深まり、龍衣や玉如意まで下賜するほどであった。
評語
粤匪(太平天国)の平定はひとえに曾国藩の功であり、西太后がこれを重用したのは慧眼と言える。捻匪の平定も曾国藩の圏地策に発し、李鴻章がこれを継いで成し遂げたもので、その功は間接的に西太后に帰してもよい。一方、恭親王を吳棠の一件で罷免したのは私情による処置だが、それはむしろ西太后が親王すら掌中で自在に操る手腕を示すものであった。譴責して威を示し、開復して恩を示す――その巧妙な操縦ぶりが群臣を畏服させた。だが安得海への寵愛はすでに驕奢の萌芽であった。