西太后演義第六回 咸豊帝、皇子誕生を喜ぶ(曾侍郎、慧眼を示す) (咸豐帝喜產佳兒 曾侍郎獨邀慧鑒)
康慈太后の崩御と喪儀
康慈皇太后は臨終に際し二つの大事を咸豐帝に託し、まもなく崩御した。咸豐帝は喪服をまとって哭礼を行い、皇后以下も服喪した。懐妊中のそのラ懿嬪は人一倍激しく泣き悲しんだため、咸豐帝は身重の体を案じ、密かに総監を通じて無理をしないよう伝えさせた。喪儀は恵親王綿愉・恭親王奕訢・怡親王載垣・大学士裕誠・尚書麟魁・全慶らが取り仕切り、旧例どおりに執り行われた。十月、太后の棺は慕東陵に葬られ、後に神牌が奉先殿に祀られ、「孝靜康慈弼天撫聖皇后」の尊謚が贈られた。恭親王奕訢は道光帝に最も愛された皇子だったが、序列の関係で四子の咸豐帝(奕詝)が嗣子とされた経緯があり、康慈太后は生前奕訢を厚遇していた。咸豐帝が奕訢に喪儀を委ねたのも太后の遺志を汲んだものであった。
懿嬪の出産と晋封
咸豐六年の暮春、そのラ懿嬪が出産の時を迎えた。咸豐帝は在位六年・二十六歳にしてまだ男子を得ておらず、后妃たちは女子ばかりを産んでいたが、懿嬪はついに男児(後の載淳)を産んだ。宮中は大いに喜び、咸豐帝は翌日ただちに懿嬪を懿妃に晋封した。
満月の宴
満月にあたり、咸豐帝は各宮の妃嬪を育麟宮に集めて祝宴を開き、礼を崩して自由に飲むよう命じた。皇子は諸妃から金銀珠玉の贈り物を受け、懿妃が代わって礼を述べた。宴は昼から夕暮れまで続き、咸豐帝は懿妃の宮に泊まった。
皇子の命名
満月を経て皇子は「載淳」と命名された。「載」の字は宗室の輩行(永綿奕載)によるもので、咸豐帝の子は当然「載」字を用いる。「淳」の字には教化を興す意が込められ、暗に立儲への含みがあった。懿妃はこれを察して密かに喜び、以後咸豐帝が載淳を可愛がって頻繁に懿妃の宮を訪れるうち、懿妃は次第に朝政にも口を挟むようになり、婦人が政治に関わる風潮がここから始まった。
政務をめぐる懿妃との会話
ある日、咸豐帝が退朝して懿妃の宮を訪れ、憂い顔で外の情勢を語った。江南大営が長毛(太平軍)に潰され、統帥の向栄は丹陽まで退いたこと、江北大営も琦善・托明阿・徳興阿と将帥を代えたが振るわず、吉爾杭阿は戦死、向栄の陣も撃破されたことなどを打ち明けた。長江上流では官文・駱秉章・曾国藩・胡林翼らが頼りになるが、塔齊布に続き羅澤南も武昌攻めで戦死したと語る。懿妃は人材を重く用いるよう勧め、自ら奏摺に目を通して曾国藩を推した。曾国藩が水師を興し数百戦を戦い抜き、上奏文にも真情がこもっていることを理由に挙げ、咸豐帝も同意する。だが大学士祁雋藻や侍郎彭蘊章らが「書生に過ぎない」「一呼で万余の兵を集めるのは朝廷の福ではない」と曾国藩を警戒していることを咸豐帝が話すと、懿妃は張斉賢・虞允文らも書生から功を立てた例を挙げて反論し、言葉が過ぎたと詫びつつも重用を重ねて説いた。咸豐帝は懿妃の見識を褒め、大学士文慶や尚書肅順も曾国藩を高く評価していることを告げる。その後咸豐帝は皇子を抱いてあやし、懿妃と共に休んだ。
その後の戦況と懿妃の省親の願い
翌日以降、向栄の病没が伝わり、和春が江南提督として丹陽へ赴任した。南京では楊秀清が簒位を図り洪秀全が韋昌輝に命じて秀清を殺させ、秀清の残党が昌輝を殺すという内紛が起き、清軍側はその間に持ち直した。官文・胡林翼が武昌・漢陽を回復し、曾国藩配下の李続賓・楊載福らが九江に迫るなど戦況はやや好転する。
ある日、懿妃は道光帝の第七子・奕譞がまだ妻を娶っていないことに目をつけ、自分の妹を娶わせたいと願い出た。躊躇いつつ切り出すと咸豐帝は快諾し、さらに懿妃が四年間実家と行き来していないことを気の毒に思い、特例として実家への里帰り(省親)を許した。実際には懿妃は入宮後すでに宦官を通じて密かに実家と連絡を取り金銭を送っていたが、その事情は伏せられていた。
評語
そのラ氏(懿妃)がこの回で寵愛と権勢を急速に高めていく様が描かれる。皇子を産んだことで格別の寵遇を受けたのは自然なことだが、国家の大事にまで発言し、曾国藩の登用を勧めた功はあるにせよ、そこから驕慢の兆しが芽生えている。「内言は閫を出でず、外言は閫に入らず」という古訓を引き、婦人の政治介入の萌芽を警告している。