西漢演義第九十回 張良は赤松子に従い遊ぶ (張良從赤松子游)
韓信との対話
帝に召された韓信は、対談の中で諸将の能力を的確に評した。帝が「自分はどれほどの兵を率いられるか」と問うと、韓信は「陛下は十万が限度」と答え、自分については「多々益々弁ず」と答えた。帝が「それほどの器がなぜ私に捕らわれたのか」と笑うと、韓信は「陛下は兵を率いる才ではなく、将を率いる才を持つ、それゆえ陛下は天授の器である」と応じた。帝は喜びつつも猜疑を捨てきれず、韓信を私邸で静養させたまま重用しなかった。
張良の引退
韓王信の謀反以来、張良は病と称して閉居し辟穀(穀断ち)を行っていた。「人生は白駒の隙を過ぐるが如し、功名は浮雲に過ぎない」と語り、栄達への執着を捨てる意志を示した。帝が大国への加封を申し出ると、張良は「留侯の封で十分、これより赤松子に従い長生の道を求めたい」と固辞し、帝は月に一度の参内のみを条件に許した。
子の張辟疆が引退の理由を問うと、張良は「位が極まれば天下に忌まれ、満ちれば溢れる。君主の疑いと世の讒言を招く前に身を引くのが明哲保身である」と説き、辟疆はその意図を理解した。後に張良は谷城で黄石を見つけ、かつて圮上の老人が語った予言の符合と悟り、祠を建てて祀った。
匈奴との和親
白登の一件以来、単于はたびたび辺境を侵した。劉敬は「今は武力で応じる時ではない、公主を冒頓の妻として送り、外孫を単于に立てる長期の策を取るべき」と進言した。帝は公主を異民族に嫁がせることを恥じたが、劉敬の「民の命を重んじるべき」との説得を受け入れ、代わりに庶人の娘を仮の公主として送ることとした。劉敬が太原で冒頓に詔書を伝えると、冒頓は喜んで受け入れ、漢と匈奴の和親が成立した。
劉敬はさらに、関中強化のため六国の後裔や豪傑十万余人を関中に移住させる策を進言し、帝はこれを採用した。
太子廃立の議
関中が安定する中、帝は寵妃の戚姫が生んだ聡明な趙王如意を愛し、柔弱な太子・盈を廃してこれに代えようとした。群臣は諫めたが決着せず、上大夫周昌が強く異議を唱えた。その内容は次回に語られる。