西漢演義第八十四回 楚の覇王は烏江で自刎する (楚霸王自刎烏江)

最後の奮戦

霸王は灌嬰・楊武・呂勝・柴武・靳歙らの追撃を受けながら烏江まで五十里を突き進んだ。漢兵の重囲を見て「私はこれまで七十余戦負けたことがない、これは天が我を滅ぼすのであって戦の罪ではない」と従騎に語り、二十八騎を四隊に分けて奮戦、漢の将を斬り旗を奪う獅子奮迅の働きを見せた。楊喜が仇討ちに向かうが霸王の一喝に怯み退く。霸王は一日で九戦し、漢の大将九人・兵千余人を討ち取り、従騎からは「大王はまさに天神」と称えられた。

烏江のほとり

烏江に至ると、亭長が船を用意して江東への渡河を勧め、「江東でなお数十万を集められる、大王は渡るべき」と説いた。しかし霸王は「江東の子弟八千人を率いて渡り、一人も連れ帰れなかった、今さらどの面目で父老に会えようか。天が我を滅ぼすのだ」と拒んだ。霸王は愛馬・烏騅だけは亭長に託して渡らせようとしたが、馬は乗船を拒み、江に身を投げて姿を消した。

自刎

霸王は徒歩で漢兵と斬り合い、なお数百人を討ち取ったが、全身に十数の傷を負った。旧知の呂馬通を漢軍の中に見つけると、「漢が我が首に千金・万戸侯を懸けていると聞く、旧誼のよしみに与えよう」と告げ、自ら首を刎ねて果てた。楊喜・楊武・王翳・呂勝らがその首級を漢王に献上した。項王は始皇十五年生まれ、漢五年十二月、烏江にて三十一歳で自刎したことが記される。

戦後処理

漢王は項王の首級を見て、かつての義兄弟の情を偲び、「王は太公・呂后を虜としながら三年間害さなかった、烈丈夫というべきだ」と涙した。項王の死により楚地は平定され、呂馬通・王翳・楊喜・楊武・呂勝はそれぞれ侯に封じられ、烏江には廟が建てられ祭祀が命じられた。

項伯の帰順と魯国の懸念

張良の元に投じていた項伯は、楚滅亡後に漢王に引見され、旧功により射陽侯に封じられ劉姓を賜った。天下がほぼ定まる中、山東の魯国だけが未だ従っていなかった。漢王は小国と軽んじて捨て置こうとしたが、張良は「魯国は小さくとも後患を残す」と諫め、その理由を語り始める。詳細は次回に語られる。