西漢演義第八十五回 漢王は韓信の封を改め楚王とする (漢王改韓信封楚)
魯国の平定
漢王が魯国を軽視しようとすると、張良は「魯は項王の元来の封地であり、放置すれば義兵を起こし後患となる」と諫め、漢王は出兵した。魯城が抵抗を続ける中、張良は「魯は周公・孔子ゆかりの礼儀の邦であり、力でなく大義を示すべき」と献策、漢王は項王の首を掲げて義帝弑逆の非道を説き、大義名分を示した。父老と儒者たちは開城して漢軍を迎え入れ、漢王は項王の遺骸を魯公の礼で手厚く葬らせ、楚地は完全に平定された。
韓信の楚王への改封
論功行賞のため諸侯を洛陽に集める中、漢王は韓信の勢力が大きすぎることを警戒し、楚は辺境の小勢力に過ぎないとして韓信を斉から楚へ転封した。韓信は当初戸惑うが、故郷である淮陰を含む楚への封は理にかなうと説得され、印を返上して楚王として赴任した。楚に着くと、かつて自分を助けた漂母には千金を、辱めた少年には官職を与え、「私怨で人を裁くような小人物ではない」と語った。
漢王、皇帝に即位
大漢六年正月、諸侯・群臣の推挙により漢王は帝位を固辞したが、三度の推挙の末に受け入れ、汜水の陽にて皇帝に即位した。詔では秦楚の苛法を廃し、太上皇帝の追尊、呂氏の立后、劉盈の立太子などが定められた。
天下を得た理由
洛陽南宮の宴で、高起・王陵は「陛下は将士に功に応じ利を分けたが、項羽は賢者を疑い功を与えなかった」と評し、帝自身は「謀略は張良、内政は蕭何、用兵は韓信に及ばぬが、この三傑を用いたことこそ天下を得た所以。項羽は范増一人すら用いられなかった」と総括した。
論功と諸侯の封建
韓信の奏上により、かつて道案内した樵夫を祠に祀り、戦死した義士辛奇を建忠侯に追贈した。張良の奏上で韓王の後嗣を韓王に、王陵の母の祠も立てられた。呉芮は長沙王、その他英布・彭越・臧荼らは旧領を安堵され、劉賈ら同姓は王に、蕭何ら二十余人は侯に封じられた。功争いに不満な群臣が謀反を疑わせる様子を見た帝が張良に相談すると、張良は「最も憎まれている雍歯を先に封じれば人心が安まる」と献策し、その通りにすると群臣は安堵した。
田横問題
張良はさらに、海島に逃れた田横を「後患となるおそれあり」として処理すべきと進言、帝はその方策を問う。詳細は次回に語られる。