三藩紀事本末鄭成功の乱(鄭成功之亂)

鄭芝龍の子・鄭成功が父の清への降伏に反対して挙兵し、福建沿海で数十年にわたり清と抗争した記録。廈門・金門を拠点に泉州・漳州を攻め、順治十六年(1659)には南京攻略まで図るが大敗、順治十八年(1661)にオランダから台湾を奪取して拠点とする。子の経、孫の克塽の代まで三藩の乱への呼応や清との攻防が続くが、康熙二十二年(1683)に鄭氏は清に降伏し滅亡する。成功挙兵の順治二年(1646年、原文表記のまま)から康熙二十九年(1690年頃)までの経緯。

年表(30件)

鄭成功は南安の人。父は鄭芝龍、母は日本人。初名は森といったが、唐王に謁見した際その才を認められ国姓(朱)と成功の名を賜った。

順治二年丙戌(1646年CE)

  • 三月、唐王は成功を忠孝伯に封じた。福州陥落の際、成功の母は兵禍で死に、成功は悲嘆に耐えなかった。父芝龍が清への投降を約すと成功は涙ながらに諫めたが聞き入れられず、清の貝勒が芝龍を連れ北へ去ると、成功は陳輝・張進らと共に船で海に出て南澳で兵を収め、数千人を得た。

順治四年丁亥(1647年CE)

  • 永明王が肇慶で即位したと聞き、永暦の年号を用いるようになる。成功は南澳から帰還。当時廈門・浯州(金門、同安に隷し両島と呼ばれる)は鄭彩・鄭聯の勢力下にあり、成功は鼓浪嶼に停泊した。
  • 七月、海澄に侵攻するが落とせず撤退。
  • 八月、鄭鴻逵と合流し泉州を攻め、清将趙国佐を桃花山で破って泉州を包囲した。

順治五年戊子(1648年CE)

  • 清将王進の来援により成功は泉州の囲みを解いた。三月、同安を攻め、守将王彪・折光秋が逃走したため入城、再び泉州を攻めるが、九月に清将佟国器・陳錦・李率泰の援軍により撤退、清軍は同安を屠った。

順治六年己丑(1649年CE)

  • 二月、施琅・楊才・黄廷・何宸樞らを漳浦へ派遣。守将王起鳳が降伏し雲霄・詔安も陥り分水関に屯営。官軍の盤陀攻撃で何宸樞が戦死した。
  • 七月、永明王の使者が成功を広平公に封じた。

順治七年庚寅(1650年CE)

  • 潮州の黄海如・陳斌の手引きで成功は潮州に入り潮陽で清軍を破った。その後両島(鄭彩・鄭聯の拠点)へ向かい、鄭聯を計略で呑み込み軍勢を吸収、鄭彩は南方へ逃れたが後に鄭聯を殺して復帰させた。
  • 十二月、清軍が広州を落とし、守将杜永和は瓊州へ逃走、成功は接応を図る。

順治八年辛卯(1651年CE)

  • 二月、成功は南下し平海衛に駐屯。清の閩撫張学聖が廈門攻略を図り馬得功に命じるが、成功は帰還して裏切った鄭芝莞を誅殺し廈門を回復、得功は鄭鴻逵の攻撃を受けすでに脱出していた。
  • 同月、施琅が清に投降し福建水師提督となる。軍法の裁定を巡る対立から成功は施琅を殺そうとしたが、蘇茂が琅を逃がしたため難を逃れ、成功は蘇茂を恨むようになった。
  • 五月、南溪に侵攻。十一月、小営鎮で清将楊名高を破る。十二月、漳浦に侵攻。

順治九年壬辰(1652年CE)

  • 正月、海澄に侵攻。二月、長泰を攻め、成功の将甘輝と清将王進勇が互角に渡り合うが、清軍が長泰を制圧し漳州属邑はすべて陥落した。
  • 五月から七か月にわたり漳州を包囲、城中は食糧が尽き人が人を食うほどの惨状となり死者七十余万人に及んだ。十月、清将金固山の援軍が到着すると成功軍は連敗し大崩壊、海澄へ退いた。

順治十年癸巳(1653年CE)

  • 五月、金固山が海澄を攻め城壁が崩れるほどの激戦となったが、成功は自ら防戦を指揮し、伏兵の斧攻めで城を守り抜き固山は囲みを解いた。

順治十一年甲午(1654年CE)

  • 清の世祖は招撫を試み、父の弟芝豹は招撫に応じ入京したが成功は従わなかった。十月、再度の招撫も不調に終わり、清は芝龍・芝豹を処罰した。
  • 十二月、漳州に侵攻、清の守将劉国軒が投降し十邑がすべて陥落。泉州も攻めたが落とせず撤退。

順治十二年乙未(1655年CE)

  • 正月、仙遊に侵攻。五月、洪旭・陳六御を派遣して舟山を攻略、清の馬信・張宏徳を招降。六月、安平鎮・恵安・同安・南安を破る。十一月、清の定遠大将軍(庶子王)が福建に至ると成功は島へ退いた。

順治十三年丙申(1656年CE)

  • 正月、庶子王が両島を攻めるが風向き不利で撤退。五月、成功は蘇茂を殺した(かつて施琅を逃した恨みによる)。六月、黄梧と蘇明が清に投降、梧は海澄公に封ぜられた。十月、庶子王は撤兵し、成功は温州・台州方面を攻略した。

順治十四年丁酉(1657年CE)

  • 三月、成功は島に帰還。甘輝・周全斌に寧徳を攻めさせ、清の満洲将アクシャンを討ち取った。

順治十五年戊戌(1658年CE)

  • 永明王の使者が成功を延平郡王に封じ、成功は南京攻略の大挙を議した。七月、黄廷を守留とし、甲士十七万・水軍等を率いて出兵。浙江で楽清等の県を陥落させるが、陽山で暴風に遭い八千余人が溺死、成功の幼子も亡くした。

順治十六年己亥(1659年CE)

  • 五月、崇明に至る。七月、焦山に到達し、瓜州鎮江への攻略を進言され採用、譚家洲奪取や滾江龍(河中の防柵)切断などの作戦を経て瓜州・鎮江を陥落させた。甘輝の南京・鎮江併進の献策は容れられず、八月に南京観音門・儀鳳門に迫るも守りが固く、油断していたところを清の副将梁化鳳の奇襲を受け大敗、甘輝は捕らえられ処刑された。
  • 九月、成功は撤兵し崇明を攻めるが落とせず、十月に島へ帰還、甘輝を悼んで廟を建てた。

順治十七年庚子(1660年CE)

  • 五月、清は達素・李率泰に両島攻撃を命じるが、成功は海門で迎撃し清軍を撃退(清将周瑞・陳堯策が戦死)、達素は福州へ帰還後自殺した。

順治十八年辛丑(1661年CE)

  • 成功は台湾攻略を議す。紅夷(オランダ)の甲螺何斌の勧めもあり、三月に澎湖・鹿耳門を経て台湾へ上陸、赤嵌城を落として王城(ゼーランディア城)を包囲した。
  • 十月、清は柴市で芝龍を処刑し、在京の鄭氏一族もことごとく誅殺された。
  • 十二月、成功は王城の艦船を焼き払うなどして圧力をかけ、旧来の領有権を認める条件でオランダを降伏させ台湾を得た。以後、法制を定め学校を興し、台湾を安平鎮、赤嵌城を承天府と改めた。

康熙元年壬寅(1662年CE)

  • 五月、成功が三十九歳で死去。子の経が廈門で招討大将軍を称して継承。清の招降には応じず、周全斌らと共に黄昭・蕭拱宸の内紛を鎮めて台湾入りした。

康熙二年癸卯(1663年CE)

  • 永明王死去の訃報が届くが経はなお永暦の年号を用いた。清に通じたとして鄭泰を殺すと泰の一族は清に投降。清は紅夷と結んで両島を攻め、清将馬得功が戦死するも最終的に両島は清の手に落ちた。

康熙三年甲辰(1664年CE)

  • 黄廷・周全斌・林順が清に投降した。

康熙四年乙巳(1665年CE)

  • 施琅が台湾攻略を上奏し出兵するが果たせず、清は琅と全斌を召還した。

康熙七年戊申(1668年CE)

  • 清は明珠・蔡毓栄を漳州へ、慕天顔を使者として派遣し招諭したが、経は朝鮮同様の待遇を求めて応じなかった。

康熙十一年壬子(1672年CE)

  • 呉三桂が雲南・四川・貴州で反乱を起こした。

康熙十二年癸丑(1673年CE)

  • 耿精忠が福建で反乱、総督范承謨を捕らえた。五月、精忠が海澄総兵趙得勝の兵を求めるが得勝は応じず経に帰順。両者は当初結んだが、経が漳州・泉州の割譲を求め精忠が拒んだことから不和となる。
  • 七月、清軍が潮州を包囲し精忠は救援できず、劉進忠が経に帰順。経の援軍は全滅するが、十一月、経方は漳浦を攻めて潮州の囲みを解いた。

康熙十三年甲寅(1674年CE)

  • 正月、精忠と経は楓亭を境とする和議を結んだ。五月、劉国軒らが潮州属邑を平定し、清の平南王尚可喜の来攻を撃退。六月、経は漳州を包囲、清の海澄公黄梧の子芳度が清に通じていたことが露見し攻囲六か月の末、芳度は自殺、経は漳州を得た。

康熙十四年乙卯(1675年CE)

  • 二月、呉三桂軍が肇慶に至り、経は韶州を得る。清の尚之信が三桂に降り、恵州が経に譲られ劉国軒が入る。五月、精忠配下の汀州守将が経に帰順。九月、清軍が福建に入り精忠が降伏、興化守将も経に帰順。十一月、邵武守将も経に帰順し、経は泉・潮・漳・韶・恵・汀・興・邵の八郡を有するに至った。
  • 十二月、清軍が邵武で呉淑を攻め、淑は敗走した。

康熙十五年丙辰(1676年CE)

  • 正月、清軍が興化を包囲し陥落(趙得勝戦死)。二月、漳州・泉州も潰え経は島へ退いた。三月、清の和碩康親王が招撫を試みるが応じず。四月、諸将を台湾へ移す。劉炎・劉進忠は清に帰順(後に処刑)、劉国軒は恵州を放棄して島へ戻り、八郡すべてを失った。

康熙十六年丁巳(1677年CE)

  • 二月、劉国軒が反攻し各地の砦を落とし海澄を包囲。六月、清軍の救援が及ばず海澄陥落。国軒はさらに長泰・同安を陥れ泉州を包囲するが、八月に清の各方面軍(李光地・朱興祚・楊捷ら)の連合作戦で反撃を受け、竜虎山の戦いで大敗(精忠自ら奮戦)し、国軒は河を泳いで逃れた。

康熙十八年己未(1679年CE)

  • 十月、呉淑が蕭井寨攻撃で圧死。清の姚啓聖は「修来館」を設け官爵・財物で投降者を招いた。

康熙十九年庚申(1680年CE)

  • 正月、清の水師が海壇を攻め、経方の林升軍は戦わず潰走し朱天貴が清に投降。二月、国軒が島へ入るが、啓聖の攻勢で両島は陥落、経と諸将は台湾へ退いた。

康熙二十年辛酉(1681年CE)

  • 六月、鄭経が台湾で死去(在位十九年)。長子克𡒉は鄭氏の血を引かないとして、経の母董氏が殺害させ、克塽が跡を継いだ。
  • 十月、姚啓聖は万正色・施琅を推挙し台湾攻略を図った。

康熙二十二年癸亥(1683年CE)

  • 六月、清軍は澎湖を攻撃。施琅の指揮のもと激戦の末、鄭方の将(林升・丘輝・江勝ら)が討ち死にし戦艦二百余隻が焼失、劉国軒は大敗して吼門から脱出した。
  • 澎湖陥落後、国軒は馮錫範・何佑・丘磊らと共に克塽に降伏を進言。七月、印綬を清軍門へ献じ降伏。八月、施琅は鹿耳門に至り台湾を接収した。
  • 克塽の在位は二年、鄭氏は成功から数えて三世三十八年で滅亡。克塽は漢軍公、錫範は漢軍伯、国軒は天津総兵、何佑は梧州副将に任ぜられた。台湾府(台湾・鳳山・諸羅の三県)が設置された。
  • 寧靖王朱術桂(遼王の後裔で成功を頼り渡海した人物)は澎湖陥落を知り王印を克塽に授け自縊、妾の袁氏・王氏・秀姑・梅姐・荷姐も殉じた。十日後、鳳山県長治里に葬られた。

康熙二十九年庚辰(1690年CE?)

  • 皇帝は成功と子経の柩を南安へ帰葬させるよう命じた。