三藩紀事本末諸方の雑乱(雜亂)
南明政権を支持して各地で自発的に興った、江西・浙江・広東・江南の郷紳・遺民らによる小規模な抗清蜂起を列伝的に集めた篇。多くは順治二年(1645)の南都陥落直後に起こり、金声桓・王得仁の反乱(順治五年)への呼応を経て、いずれも清軍の鎮圧や内通により指導者が死に至る。順治二年(1645)から順治七年(1650)ごろまでの各地の挙兵を扱う。
年表(18件)
- 順治二年乙酉(1645年CE)-徳化・李含初の挙兵李含初が䀶山で挙兵するが部下の内通で敗死する
- 順治二年乙酉七月(1645年CE)-徳安・郭賢操の挙兵郭賢操が徳安を回復するが後に金声桓の乱に呼応し処刑される
- 順治二年乙酉(1645年CE)-新昌・陳泰来の挙兵陳泰来が新昌を連破するが金声桓の計略で敗死する
- 順治二年乙酉(1645年CE)-瀘渓・魏一柱の抗清魏一柱が瀘渓を守るが清軍に包囲され諸勢力とも死す
- 順治二年乙酉(1645年CE)-金川・胡海定の挙兵胡海定が金川で挙兵するが捕らえられ処刑される
- 順治二年乙酉(1645年CE)-龍泉・劉士楨の挙兵劉士楨が龍泉で挙兵し金声桓の乱にも呼応するが絶食死する
- 順治二年乙酉(1645年CE)-黄斌卿の舟山経営黄斌卿が舟山に割拠し専横を極めるが部下の離反で殺される
- 順治二年乙酉(1645年CE)-呉江・呉易の太湖挙兵呉易が太湖に拠り義軍を興すが捕らえられ処刑される
- 順治二年乙酉六月三日(1645年CE)-呉淞・呉志葵の挙兵呉志葵が松江で略奪に終始し蘇州で大敗、処刑される
- 順治三年丙戌(1646年CE)-廬陵・劉淑英劉淑英が私財で義軍を興すが張先璧の求婚拒否後に病没する
- 順治三年丙戌~四年丁亥(1646-1647年CE)-広東・陳邦彦らの挙兵陳邦彦・陳子壮らが広州を攻めるが内応露見で敗死する
- 順治四年丁亥(1647年CE)-張家玉の挙兵張家玉が東莞・増城で挙兵するが大敗し投身して死ぬ
- 順治二年乙酉~五年戊子(1645-1648年CE)-楽平・倪大顕倪大顕が金声桓の乱で奮戦するが力尽きて自刎する
- 順治二年乙酉頃-吉水・王寵王寵が転戦を重ねるが金声桓の乱に呼応できず山中で没する
- 順治四年丁亥四月(1647年CE)-松江・呉兆勝の叛呉兆勝が黄斌卿引き入れを謀るが密告され失敗する
- 順治五年戊子~七年庚寅(1648-1650年CE)-建昌・孔徹元孔徹元・蔡観光が挙兵を図るが露見しいずれも処刑される
- 順治五年戊子(1648年CE)-星子・呉江呉江が金声桓に呼応して挙兵するが内通により捕らえられ処刑される
- 順治二年乙酉(1645年CE)-臨川・郭維経の子らの挙兵郭応銓ら三兄弟が挙兵するがいずれも壮絶な最期を遂げる
順治二年乙酉(1645年CE)-徳化・李含初の挙兵
- 徳化の李含初は家財を投じて䀶山で挙兵し、徳安・瑞昌を連破した。当初は民心も味方したが、まもなく部下の王拐子が清の守将余世忠に内通して䀶山を襲わせ、含初は戦死。同時に殉じた者に生員李映陽・武生唐扉・鄧士鳳・熊九鼎・宗麻子がいた。
順治二年乙酉七月(1645年CE)-徳安・郭賢操の挙兵
- 郭賢操は徳安を回復し建昌も陥落させたが、部下の高長子が清に内通して賢操を捕らえ献上。清側は当時招撫を方針としていたため釈放された。三年丙戌四月、賢操は再挙を図るが清軍に居を焼かれ単身脱出。五年戊子、金声桓・王得仁の反乱に呼応して再度挙兵するが捕らえられ処刑された。子七人のうち良錫・良銓は建昌攻めで戦死、良鐸は馬兵営の戦いで戦死。同時に挙兵した徳安の生員桂登魁・胡戒(登魁の妾胡氏も殉死)も同様の運命をたどった。
順治二年乙酉(1645年CE)-新昌・陳泰来の挙兵
- 陳泰来は私財を投じ李凌虹に万載を回復させ清の県令杜章卿を討ち、新昌を連破した。十二月、子の正儀・正儼を他省へ逃し自ら兵を率いて東下したが、金声桓の計略(戴国士を招撫使に見せかけ大軍を伴わせる策)により不意を突かれ敗死。同時に戦死した瑞州の劉諂新・諶廷椿・胡親民がいた。
順治二年乙酉(1645年CE)-瀘渓・魏一柱の抗清
- 清が瀘渓を平定し李光を県事に任じたが、貢生魏一柱は李光を捕らえて鄭彩に送って処刑させ、張載述と共に瀘渓を守り清軍を密潭で破った。四年丁亥、清将王得仁が瀘渓の丁・傅・魏三族を族滅する命を下すと、一柱は妻子を捨てて福建へ逃れ、将楽を攻略し諸勢力と結んで建寧を陥落させたが、清軍に五か月包囲され陥落、一柱ら諸勢力は皆死んだ(先に脱出していた興安のみ難を免れた)。
順治二年乙酉(1645年CE)-金川・胡海定の挙兵
- 南昌の挙人で汜水知県の胡海定は海川・董徳興と共に金川で挙兵。十月、清軍が婺源を取ると金川軍は糧道を断ち清軍は撤退したが、婺源は再攻略され清の官吏が殺害された。清軍が海川の陣営を襲うと海定は捕らえられ処刑された(首を斬られてもなお倒れなかったという)。同時に殉じたのは揭新。
順治二年乙酉(1645年CE)-龍泉・劉士楨の挙兵
- 天啓進士劉士楨は龍泉で挙兵し泰和・廬陵に及んだ。三年丙戌、吉安が再陥落すると、子の肇履を福建へ、季子稚升を李陳玉のもとへ送り信豊で挙兵させ贛州の援軍とした。贛州陥落後は黄田に身を潜め、五年戊子の金声桓・王得仁反乱に呼応して肇履に劉一鵬と共に贛州を包囲させ、稚升は南雄へ向かわせた。反乱失敗後、士楨は龍泉に隠れるが清の捜索を受け絶食死。稚升は後に長橋鋪で戦死した。
順治二年乙酉(1645年CE)-黄斌卿の舟山経営
- 南都陥落後、江北総兵黄斌卿は逃れ、唐王の即位に際し舟山を海上の要地として献策、肅鹵伯に封じられ舟山に駐屯した。制度を定め田地・民を軍事に組み込んで割拠を図った。三年丙戌六月、魯王が浙東で敗れ張名振に護られて出海したが斌卿は受け入れず、靖夷侯王之仁を殺してその軍を併呑、之仁の部将張国柱の反撃も退けた。義軍の胡来貢の船を奪い監軍御史荊本徹を殺害するなど専横を極め、四年丁亥には皇族の子二人を海に沈めて財を奪い、忠威伯賀名堯を殺してその船五十隻を奪うなど勢威を振るった。しかし部下の王大振が離反し鄭彩・張名振・阮進らと共に魯王へ斌卿の悪行を訴え、諸鎮の討伐を受けて斌卿は阮進に殺された。
順治二年乙酉(1645年CE)-呉江・呉易の太湖挙兵
- 呉江の進士呉易は元は史可法の監軍であったが、揚州・蘇州陥落後太湖に拠り、孫兆奎・沈自炯・沈自炳・呉福之らと長白蕩に営を結んだ。近隣では周毓祥・周謙らの一党も出没し、助餉を名目に富家を掠奪する状況が数年続き、江南の大きな災いとなった。十二月八日、清軍の討伐で賊は泖西から遁走。三年丙戌五月、清軍は四保匯で賊を急襲し首魁羅騰蛟を捕らえた。同じころ張飛遠が金山衛を襲うが撃退され逃走、内通者は清側に処刑された。七月、周毓祥は捕らえられ南京で処刑、周謙は投降。まもなく呉易も捕らえられ杭州で処刑され、八月には残党も投降し、投降者には免死牌が与えられた。
順治二年乙酉六月三日(1645年CE)-呉淞・呉志葵の挙兵
- 呉淞副総兵呉志葵は舟師を率いて申浦に入るが、実態は富家からの金銀・米の徴発と略奪に終始し、清の守令を追放したため松江には官も統治もない状態となった。蘇州の閶門を窺うが清軍に大敗、志葵は泖中へ退いた。両広総督沈猶龍が松江に拠り、陳子龍・徐孚遠らも太湖で挙兵(「振武」と号す)したが、志葵と連携せず互いに救援せぬまま城は陥落。志葵は海路脱出を図るが清軍の奇襲で軍は壊滅、捕らえられて処刑された。陳子龍は後に呉兆勝の乱の際に死んだ。
順治三年丙戌(1646年CE)-廬陵・劉淑英
- 廬陵の王藹の妻劉淑英は、揚州太守として殉難した父劉鐸の志を継ぎ、寡婦となってからも家僮百人を集め私財で義軍を興した。楚将張先璧の陣に投じるが、先璧に求婚され拒んだため部隊を分断され、怒りのうちに病没した。
順治三年丙戌~四年丁亥(1646-1647年CE)-広東・陳邦彦らの挙兵
- 清が広州を取った後、四年丁亥三月、陳邦彦・王興・頼其肖らが盗賊余龍と結んで広州を囲むが、清軍の反撃と統率の乱れで撤退。八月、陳子壮も九江村で挙兵し、邦彦と結んで広州再攻を図るが内応計画が露見して失敗。李成棟の追撃を受けた際、邦彦の火攻めは奏功したが日暮れで味方の識別が乱れ大敗、子壮の長子上庸も戦死。邦彦は清遠で捕らえられ処刑、子壮も高明で捕らえられ処刑、子壮の母は自縊した。
順治四年丁亥(1647年CE)-張家玉の挙兵
- 旧広信巡撫張家玉は東莞で挙兵するが清軍に敗れ各地を転戦、増城を拠点に龍・虎・犀・象の四営を編成するも清軍の猛攻に大敗し、矢弾尽きて野の池に身を投げて死んだ。祖母・母・妹は井戸に身を投げ、妻は捕らえられて自尽した。
順治二年乙酉~五年戊子(1645-1648年CE)-楽平・倪大顕
- 楽平の倪大顕は兄大恢・大登と共に勇力で知られ、饒州司理周・黄道周・曹大鎬に従った。五年戊子、王得仁の楽平侵攻の際に奮戦し僧兵を討ち取るが力尽きて自刎、大恢・大登は捕らえられ処刑された。
順治二年乙酉頃-吉水・王寵
- 吉水の王寵は劉同升に従い挙兵するが軍規により離脱、その後臨川・吉安・撫州・贛州を転戦。清軍に捕らえられた際に偽って降伏し、夜半に同伴者を殺して旗を奪い、新淦の峡江県令を欺いて急襲・連破した。鄒文鼎・鄒敬の挙兵に合流するが清軍に敗れ両者は死し、寵は「追戦王寵」の旗を掲げて逃走。翌年、金声桓・王得仁の乱に呼応しようとするが行方が知れず山中で没したとみられる。同時期、安仁の僧丹竹は益王配下の一営として活動し、揭重熙に従って撫州を襲い清将王得仁に肉薄したが、後に病を突かれ捕らえられそうになるも奇計で撃退。金声桓軍の広信での鹵獲を奪い返すなど活躍したが、最終的に清の貝勒軍を襲った際に落馬し討たれた。
順治四年丁亥四月(1647年CE)-松江・呉兆勝の叛
- 松江提督呉兆勝は周謙・陳子龍・殷之輅・張寛らと通謀し黄斌卿の海上勢力を引き入れる計画を立てたが、風向きの不順で援軍の到着が遅れる間に密告され、洪承疇に計画が漏れた。兆勝は関係者を殺して隠蔽を図るが、副将詹天祥・都司高永義に捕らえられ将校十七人が処刑された。まもなく清軍が松江に至り陳子龍を捕らえ(子龍は投水自殺、遺体は戮された)、殷之輅・張寛は南京で処刑された。
順治五年戊子~七年庚寅(1648-1650年CE)-建昌・孔徹元
- 建昌の富家孔徹元・徹哲兄弟とその食客蔡観光は、五年戊子の金声桓・王得仁の乱で清軍に敗れた哲を失い、六年己丑、明の遺宗擁立の噂に乗じて元が挙兵するが呼応する勢力なく解体、部下の密告で捕らえられた。観光は七年庚寅に単独で挙兵を図るが露見し捕らえられ処刑された。
順治五年戊子(1648年CE)-星子・呉江
- 金声桓の南昌反乱に呼応して星子の諸生呉江が挙兵。清軍の江州再平定を経て都昌へ退き旧鎮張士彦の残兵を得て再起を図るが、味方の黄才が清に内通し呉江を捕らえて献上、処刑された。
順治二年乙酉(1645年CE)-臨川・郭維経の子らの挙兵
- 吏部尚書郭維経の子応銓・応衡・応煜は臨川で挙兵し清軍と十数戦を交え戦果を挙げ、唐王から官職を授けられた。維経は贛州で指揮し応銓は龍泉で贛州の後詰めとなったが連携が取れず、四年丁亥、清軍の攻撃を受け部将の内応で龍泉が陥落、応銓・応衡兄弟は捕らえられた。応銓は崖から身を投げるも死にきれず、降伏を拒み自ら喉を突いて死んだ。応衡は吉安で毒を仰ぎ器を叩き割って罵り、歯を砕き腕を切って死んだ。応煜は清の按察使董学成に唾を吐いて罵り、腸を引き出して死ぬという最も凄惨な最期を遂げた。