三藩紀事本末蜀の混乱(蜀亂)

張献忠の四川占拠に始まり、その死後も諸将・宗室・土豪が入り乱れて割拠した四川の混乱の経緯。樊一蘅・楊展らの抗清勢力と孫可望配下の攻略、朱容藩の僭称などを経て、順治十六年(1659)以降に張献忠残党・李自成残党が相次いで平定され、康熙二年(1663)に四川が完全に平定されるまでの順治元年(1644)から康熙二年(1663)を扱う。

年表(11件)

順治元年甲申(1644年CE)

  • 張献忠が四川全土(遵義を除く)を占拠。総督樊一蘅と督師王応熊は逃れつつ旧将に檄を発して蜂起を促した。重慶・松潘・龍安が回復され、一蘅は甘良臣を総統に任じ楊展・馬応試・余朝宗らの残兵三万を集めた。

順治二年乙酉(1645年CE)

  • 三月、敍州攻略に成功。賊将馮双礼を破るが孫可望の援軍と対峙の末、一蘅は古藺州へ、楊展は江津へ退いた。羊子嶺での攻防を経て、一蘅は展・応試に嘉定・卭眉を、賈聯登・楊維棟に資簡を、天錫・高名佐に瀘州を、李占春・于大海に忠涪の守備を命じた。
  • 曾英・劉麟長らが于大海・李占春・張天相と協力して賊数万を破り名声を上げ、一蘅の指揮下に加わった。他にも各地に義軍が興り、一蘅は納渓に移って統括した。

順治三年丙戌(1646年CE)

  • 春、楊展らが川南を平定。献忠は激怒し境内の民を虐殺、金銀を川に沈め宮殿を焼いた上で孫可望・劉文秀らに川南攻撃を命じたが敗退。曾英らは成都を突いて七月に陥落させ、献忠は順慶へ逃走。保寧・順慶を守っていた劉進忠は献忠の粛清を恐れ清軍に降伏、献忠の所在を密告した。十二月、清軍は鹽亭で献忠を討ち、賊軍は南へ潰走した。
  • 曾英は重慶で最強を誇ったが孫可望の急襲で戦死、綦江も陥落。督師王応熊は畢節衛へ退き病没、永明王は呂大器を後任とした。

順治四年丁亥(1647年CE)

  • 賊軍が遵義に入る一方、清の大軍が四川に侵攻し各地を制圧。于大海・袁韜・李占春らは各地へ退き四川北部は清の版図に入った。清軍が遵義まで賊を追うが糧が尽き撤退、王祥らは保寧・順慶に復帰。樊一蘅は再び長江沿いに拠点を構え永明王に上表、戸部・兵部尚書兼太子太傅に任じられ諸将も昇進した。
  • 各地の武将(袁韜・于大海・李占春・譚詣・譚文・譚弘・王祥・楊展ら)が割拠し、宗室朱容藩や旧巡撫李乾徳らも各自権を分けたため、一蘅の命令は敍州一郡にしか及ばなくなった。李自成の残党(李赤心・郝揺旗・袁宗弟ら)も夔・巫の間で活動した。

順治五年戊子(1648年CE)

  • 朱容藩は自ら楚世子・天下兵馬副元帥を称し、夔に行台を建てた。武岡での敗報で永明王死去の誤報が流れると容藩は僭称を強めたが、呂大器・李占春・李乾徳らが糾弾し、容藩は二譚を頼り石砫を攻めるも占春の救援により敗れ雲陽で死んだ。四川は永明王に帰服した。
  • 李乾徳は許韜・武大定と結び、袁韜との不和から楊展に許韜との合流を勧めた。展は袁韜・武大定の力を借りつつ占春との関係も保ち財を送ったが、韜らの要求には応じきれず恨みを買う。韜が犍為に移った際、展の誕生祝いに乗じて乾徳は韜に展を殺させ財を奪わせた。展の死後、諸将は離反し乾徳は孤立した。
  • 孫可望は展の死を知り四川攻略を図り、王自奇・劉文秀・白文選らを送り込んで王祥を烏江河で破り曹勛を捕らえ嘉定へ迫った。袁韜・武大定は自奇軍に大敗し捕らえられ、李乾徳は投水自殺。三譚(譚弘・譚詣ら)は降伏し、盧名臣が涪州を攻め李占春は敗走。于大海は忠州から夔を経て楚へ逃れ、占春とともに清に投降。劉文秀が四川を制圧した。

順治七年庚寅(1650年CE)

  • 正月、文秀は雲南へ帰り白文選に嘉定、劉鎮国に雅州を守らせた。三月、清の南征軍に文選・鎮国はともに敗れ、清軍は嘉定に入り范文光・詹天顔が戦死。九月、樊一蘅も山中で没し、四川の抗清勢力はほぼ壊滅した。

順治九年壬辰(1652年CE)

  • 劉文秀・白文選が保寧を攻めるが、清軍は象陣を撃破して撃退した。

順治十六年己亥(1659年CE)

  • 譚弘・譚詣が清に投降。両名はかつて譚文を殺していたため文安之・劉体仁・李来亨らに討たれることを恐れて降伏。まもなく馬湖・敍州も清に帰し、武隆の牟勝も降伏して赦免された。これにより張献忠残党による四川の擾乱はほぼ終息した。

順治十八年辛丑(1661年CE)

  • 李自成残党の郝揺旗・袁宗弟・劉二虎らはなお巴東に拠っていたが、朝廷の命で三省合同討伐が行われ、清軍は万県に駐屯し賊は夔州を放棄した。

康熙元年壬寅(1662年CE)

  • 正月元旦、清軍は羊耳関を奪取、賊は天昌県を焼いて逃走した。

康熙二年癸卯(1663年CE)

  • 賊は再び巫山を侵すが清軍は正面から戦いつつ伏兵を配して大破。劉二虎は自縊、郝揺旗・袁宗弟も捕らえられ、四川は完全に平定された。