三藩紀事本末清軍の南征(王師南征)

清の南征軍が湖南・広西・広東を席巻し、南明・永明王の朝廷が湖南の喪失から桂林陥落、広州陥落を経て安隆(安龍)へ追い詰められるまでの経緯。何騰蛟・瞿式耜・李成棟・陳邦傅ら諸将の攻防と離合を軸に、順治四年(1647)から順治九年(1652)の6年間を扱う。

年表(6件)

順治四年丁亥(1647年)

  • 三月、清が定南王孔有德・靖南王耿仲明・平南王尚可喜らに命じて湖南へ進軍させると、定興伯何騰蛟と総兵郝永忠は衡州へ退き、張先璧は宝慶へ、湖北巡撫堵胤錫は永定衛へ、王有才・馬進忠らは五渓の山中へと退いた。
  • 五月、清軍は衡州に至り、永忠は敗走、総兵黄朝宣らは捕らえられた。騰蛟は永州に退き、従うのは雲南出身の将趙印選・胡一青ら数名のみとなった。
  • 八月、清軍は武岡を破り常徳・宝慶も失陥、総兵劉承胤は敗れて降伏。永明王は靖州から蛮道を経て柳州へ向かうが、土司の内紛に巻き込まれ柳州も陥落、王の乗る舟にまで矢が及び象州へ逃れた。この頃湖南はほぼ清に制圧され、永州も破られた。騰蛟・永忠・盧鼎は桂林に入り留守瞿式耜と分守を協議、式耜は焦璉に命じて陽朔・平楽を、陳邦傅に潯州を回復させ両広の連携で梧州も奪還、粤西はほぼ保たれ、王は桂林に戻った。

順治五年戊子(1648年)

  • 二月、清軍が粤西に侵入し永忠は興安で潰走、桂林に逃げ戻って大掠奪を働いた。三月、清軍は桂林北門に迫るが、金声桓が江西で叛いた報を受け撤退。五月、騰蛟が全州を回復。
  • 六月、李成棟が広東で清に叛き永明王に帰順。王は成棟を恵国公、声桓を豫国公[一説に昌国公とも]に封じ、王得仁・佟養甲・杜永和らを侯伯とし、成棟の子元胤を錦衣指揮使とした。王は肇慶に戻る。騰蛟は再び湖南へ出師し永州から衡州へ、胤錫も忠貞営を率いて常徳から湘潭へ進んだ。十月、成棟が贛州を攻める。江西一帯はすでに清に叛いていたが贛州だけは清将高進庫が守っており、声桓の攻撃を退けていたため、成棟が加勢するが戦況思わしく南康県に退いた。

順治六年己丑(1649年)

  • 正月、清軍が南昌を陥落させる。清将烏金王が湘潭を落とし騰蛟を捕らえた。二月、成棟は信豊で敗れ、渡河中に馬が倒れ水死。杜永和が両広総督となり広州に駐屯、羅成耀が南雄を守る。清軍は湘潭から衡州に迫り、胤錫は敗れ衡州・永州とも失陥。
  • 十二月、清の平南王・靖南王継嗣の耿継茂が広東へ進軍、羅成耀は逃走し南雄も失われた。

順治七年庚寅(1650年)

  • 正月十四日、清軍が韶州を落とす。王は庾嶺関失陥を聞き梧州へ逃れ、馬吉翔・李元胤に肇慶を守らせた。
  • 二月、清軍が広州を包囲。潯州の陳邦傅と忠貞営の高必正の援軍を求めるが、邦傅は元胤との旧怨や忠貞営に対する反感から内紛が生じ、李来亨らとの衝突もあって必正は怒って引き上げてしまう。邦傅・馬吉翔とも進撃せず。広州は成棟時代に築いた炮台と水濠で十か月持ちこたえたが、内応者が水を切って堤を破り、十二月二日ついに陥落。杜永和は海路で瓊州へ、建捷(元胤の弟)は囲みを脱して肇慶へ、邦傅は三水で潰走した。清の定南王もこの間に全州を落としている。
  • 五日、桂林も陥落(詳細は「式耜殉粤」)。邦傅は桂林陥落を聞き藤江で従官を襲い部郎潘駿観・許王鳳らを殺害。王は南寧へ逃れ、胡一青・趙印選は賓州に駐屯した。

順治八年辛卯(1651年)

  • 清軍が肇慶を取り、元胤・建捷は南寧へ逃れる。孫可望の部将賀九儀が内閣の厳起恒らを殺害する事件が起き、元胤は憤って高州・雷州の兵を集め王を海路で迎えようとするが、欽州で土豪王勝堂に捕らえられ靖南王のもとに送られる。降伏を拒み、杜永和を招降する書状を書くことも拒否したため、弟建捷ともに市で斬られた。
  • 九月、陳邦傅が靖南王に降伏。報を受けた南寧では王が広南へ逃れることを議論、後軍の印選・一青の軍も敗れ、清軍まで五十里に迫ったため王は水路で土司の地へ脱出、瀬湍から羅江土司を経て龍英に至り、さらに広南へ、年の暮れにようやく到着した。この頃、孫可望はすでに秦王に封じられており、人を遣わして王を迎えた。

順治九年壬辰(1652年)

  • 二月、可望は王を安隆へ移し、地名を安龍と改めさせた。清軍は瓊州を取り、杜永和が降伏した。