三藩紀事本末何騰蛟、湖広に殉ずる(何騰蛟殉楚)
湖広巡撫として抜擢された何騰蛟が、左良玉の専横と南明の混乱の中で湖南の抗清勢力をまとめ上げ、李自成の遺党をも帰順させて一時は威望を得るも、配下諸将の統制を失い、最後は湘潭で清軍に捕らえられ節を守って死ぬまでの崇禎十六年(1643)から順治五年(1648)にかけての生涯。
年表(6件)
- 崇禎十六年癸未1643年何騰蛟が湖広巡撫に起用され左良玉の専横下で名を上げる
- 順治元年甲申1644年福王擁立の詔を左良玉に受けさせ、湖南巡撫等を兼任する
- 順治二年乙酉1645年左良玉の東下に巻き込まれ投身するも救われ、長沙で属吏を集め抗戦体制を築く
- 順治三年丙戌1646年李自成残党を帰順させ十三鎮を編成、東閣大学士に任じられる
- 順治四年丁亥1647年清軍に長沙を追われ諸将の統制を失い桂林でようやく安定する
- 順治五年戊子1648年太師に加封されるも湘潭で清軍徐勇に捕らえられ、降伏を拒み殺害される
崇禎十六年癸未(1643年)
- 何騰蛟は右僉都御史に起用され、王聚奎に代わり湖広巡撫となる。かつて南陽知県として賊の勢いを幾度も挫き、巡撫陳必謙に従い安皋山の賊を破るなどして名を上げていた。この時、左良玉は武昌に駐屯し専横を極めていた。
順治元年甲申(1644年)
- 五月、福王が江南で自立。詔が届いたとき漢陽にいた左良玉は不服の様子を見せたため、騰蛟が良玉の軍まで赴いて説得し、良玉の参軍盧鼎の進言もあって礼を尽くして詔を受けさせた。
- 八月、王は騰蛟を兵部侍郎兼湖南巡撫に加え、さらに湖南・四川・雲南・貴州・広西軍務総督とした。
順治二年乙酉(1645年)
- 南京で「北来の太子」の噂が広まると良玉は兵を率いて東下、騰蛟を伴おうとしたが応じなかったため、良玉軍は城中の人々を殺して脅そうとした。騰蛟は印を家人に託して逃がし自刃しようとするが良玉の部将に連れ去られる。漢陽への船中、隙を見て川に身を投げるが十余里流された末に漁舟に救われ、そこは関羽廟だったという。印を持った家人とも再会し、人々は神の加護と噂した。
- 騰蛟は寧州・瀏陽を経て長沙に至り属吏を集めて盟誓、堵胤錫を湖北巡撫代理、傅上瑞を湖南巡撫代理、章曠を総督監軍、周大啓を提督学政に任じ、厳起恒に衡永道を、呉晋錫に柳桂道を担わせた。章曠が黄朝宣・張先璧・劉承胤らの兵を招集する頃には左良玉はすでに死去していた。
順治三年丙戌(1646年)
- 五月、唐王が福州で自立、騰蛟の賢才を知る王はさらに重用した。李自成没後、その部将劉体仁・郝搖旗らが帰属先を失っていたところ、騰蛟は部将万大鵬を遣わして招き、誠意をもって迎え入れた。これにより藺養成・王進才・牛有勇らも帰順し、兵は一挙に二十余万に増え軍威が大いに振るった。さらに李自成の旧将李錦・高必正らも堵胤錫の説得で常徳付近から降伏し、自成の遺党はことごとく騰蛟に帰した。
- 騰蛟は「元凶はすでに除かれた」と上奏し自らの功を誇らなかったため、唐王は大いに喜び東閣大学士兼兵部尚書、定興伯に封じ両江攻略の総督を任せた。降卒と旧軍を編成し、黄朝宣・張先璧を総兵官に、劉承胤・李赤心(李錦改名)・郝永忠(郝搖旗改名)・袁宗弟・王進才・董英・馬尽忠・馬士秀・曹志建・王允成・盧鼎らに湖北方面を分守させた、いわゆる「十三鎮」である。
- 丙戌正月、騰蛟が出師を上表した直後、李赤心が湖北で敗れ、以後騰蛟の威望は損なわれた。まもなく唐王が汀州で没し、騰蛟は大いに嘆く。永明王が立つと騰蛟を武英殿大学士・太子太保に加える。
順治四年丁亥(1647年)
- 清軍が長沙に迫り騰蛟は守り切れず単騎で衡州へ逃れ、長沙・湘陰は失われた。衡州を守っていた盧鼎は張先璧の乱入で抗しきれず永州へ退却。先璧は騰蛟を挟んで祁陽・辰州へと引き回すが、騰蛟は脱出して永州へ向かうも、そこでも部将の掠奪に遭い、鼎は道州へ、騰蛟と厳起恒は白牙市へと逃れた。清軍は衡州・永州を平定。かつて騰蛟が置いた「十三鎮」の諸将は各地で盗賊化した。
- まもなく部将周金湯が永州を回復。六月、白牙市にいた騰蛟のもとで諸将は命令に従わなくなる。小校から大将に取り立てた劉承胤(定蛮伯)はかえって騰蛟を忌み、婚姻を結んで安国公・上柱国に進めるも、承胤の驕慢はやまず騰蛟の兵権を奪おうとし、騰蛟は手も足も出せなくなった。王は雲南の援将趙印選・胡一青の兵を騰蛟に配属させる。
- 八月、清軍が武岡を破り常徳・宝慶が再び失われ、永安も再度失陥。王は柳州から桂林へ戻ろうとするが城の守りは焦璉の一軍のみで薄弱だったため、騰蛟は印選・一青とともに桂林に入り、盧鼎の兵も合流して桂林はようやく安定した。
順治五年戊子(1648年)
- 正月、騰蛟は太師・世侯に加封される。二月、郝永忠・趙印選の兵が桂林で大掠奪。清軍がこれを察知して桂林北門に迫るが、騰蛟は璉・一青と分守してこれを退けた。
- 三月、李成棟が広東で清に叛き永明王に帰順したため清軍は一時撤退。騰蛟は全州を回復し、保昌侯曹志建・宜章侯盧鼎・新興侯焦璉・新寧侯趙印選が永州を、李甲春が宝慶を回復、諸将が衡州を回復、馬進忠が常徳を回復する。騰蛟は長沙進攻を図るが、李赤心が到着したため督師堵胤錫の命で進忠に常徳を赤心に譲らせたところ、進忠は激怒して城の住民を追い出し家屋を焼いて武岡へ去り、諸将も城を空けて逃げ去った。
- 己丑正月、騰蛟は三十人の吏卒を率いて赤心を迎えに湘潭へ赴くが、赤心はすでに空城と知り退去、騰蛟自身が湘潭に入る。清軍は騰蛟が空城に入ったのを見て徐勇(もと騰蛟の部将)を派遣。勇は騰蛟に降伏を勧めるが応じず、そのまま連れ去られ七日間絶食しても死ななかったため殺害された。騰蛟の邸には「神魚井」と呼ばれる、生前は魚のいなかった井戸に彼が生きている間だけ五色の魚が満ちたという言い伝えがあり、騰蛟の死後、井戸の魚も消えたという。