出自
- 滕胤、字は承嗣、北海国劇県の人。伯父の滕耽、父の滕冑は劉繇と同郷で家柄も通じていた。世が乱れたため、江を渡って劉繇のもとに身を寄せた。孫権が車騎将軍であった時、滕耽を右司馬に任じ、寛厚と称されたが、早くに没し嗣子がなかった。滕冑は文章に巧みで、孫権は賓客の礼をもって遇し、軍国の文書はいつも彼に手を入れさせ潤色させたが、これも不幸にも短命に終わった。
- 孫権が呉王となった際、旧恩を追想し、滕胤を都亭侯に封じた。若くして節操があり、容姿・威儀が美しかった。
- 『呉書』はいう。滕胤は十二歳で孤児となり独り立ちしたが、身を修め行いを励むことができた。色白で、威儀は見るべきものがあった。正月の朝賀のたびに勤めを修め、その場に居合わせた大臣は皆感嘆した。弱冠で公主を娶り、三十歳で初めて出仕し丹楊太守となり、後に呉郡・会稽に転じ、どこでも称賛された。
- 『呉書』はいう。滕胤は時宜に適う政策や民間の得失について上表し、多く匡正を行った。孫権は滕胤ゆえに公主への賜与を増やし、たびたび見舞いをした。滕胤は訴訟を聴くたびに、罪を裁くにあたり言葉や顔色を観察し、情理を尽くすよう努めた。窮迫し悲しみに沈んだ言葉を語る者があると、これに対して涙を流した。
- 太元元年(251年)、孫権が病に伏し、都に呼ばれ太常に留まり、諸葛恪らと共に遺詔を受けて輔政した。孫亮が即位すると、衛将軍を加えられた。
諸葛恪への諫言
- 諸葛恪が全軍を挙げて魏を討とうとした際、滕胤は諸葛恪を諫めた(喪に服す代替わりの時に伊尹・霍光のような重責を受け、内には朝廷を安んじ外には強敵を挫き、その名声は海内に轟き、万民は諸葛恪によって安息を得られると期待している、今、労役の後に再び師を興して出征すれば、民は疲れ力は尽き、遠方の敵は備えを固めている、攻城に失敗し略奪の成果もなければ、これまでの労苦を失い後に責めを招くことになる、兵を収め師を休ませ隙を見て動く方がよい、兵は大事であり衆議で成し遂げるものである、衆がもし喜ばなければ、あなた一人で安んじられようか、と説いた)。
- 諸葛恪は「あれこれ不可だと言う者は皆考えが至っておらず、安逸を貪りたいだけだ、それなのにお前までそう考えるのなら、私は何を期待すればよいのか。曹魏は暗愚で無能な者が政治を私門で行っており、その臣民には既に離反の心がある。今、我が国の資力に頼り、戦勝の威を借りれば、どこへ行っても勝てないことがあろうか」と答えた。
- 滕胤は都下督に任じられ、留守の政務を統括した。滕胤は昼は賓客に応対し、夜は文書を精査し、時に夜を徹して眠らなかった。
- 『呉書』はいう。滕胤への寵任はますます高まり、士人への応対もいよいよ勤勉であった。上奏文や文書は全て自ら意を用い、下の者に委ねなかった。