三國志卷六十四 吳書十九 孫峻
孫峻、字は子遠、孫堅の弟孫静の曾孫。孫権の遺詔を受けて諸葛恪と共に輔政したが、民の怨みに乗じて諸葛恪を宴席で謀殺し、丞相大将軍として実権を握った。凶暴驕慢で宮女や公主とも密通するなど乱行が多く、広陵築城など事業もしばしば失敗した。諸葛恪に打たれる夢を見て病を発し、享年三十八で没し、後事を従弟の孫綝に託した。
出自と輔政
- 孫峻、字は子遠、孫堅の弟孫静の曾孫である。孫静は孫暠を生み、孫暠は孫恭を生み、散騎侍郎となった。孫恭が孫峻を生んだ。若くして弓馬に巧みで、精悍果断であった。孫権の晩年、武衛都尉に転じ、侍中となった。
- 孫権が薨じる際、遺詔を受けて輔政し、武衛将軍を領して宿衛を掌り、都郷侯に封じられた。諸葛恪を誅した後、丞相大将軍に遷り、中外諸軍事を督し仮節を授けられ、富春侯に進封された。
- 滕胤は諸葛恪の子諸葛竦の妻の父であったことから辞位しようとしたが、孫峻は「鯀・禹の罪は互いに及ばないという、滕侯(滕胤)がなぜ辞める必要があろうか」と言った。孫峻と滕胤は内心では打ち解けなかったが、表向きは互いに包容し合い、滕胤の爵位を高密侯に進め、共に事に当たった。
- 『呉録』はいう。群臣は上奏して共に孫峻を太尉に推し、滕胤を司徒に議したが、当時孫峻に媚びる者があり、大統は宗族にあるべきで、滕胤は名声が重く人心も彼に附いているので、これと並び立たせるべきではないとした。そこで上表して孫峻を丞相とし、また御史大夫を置かなかったため、士人は皆失望した。
- 孫峻はもともと高い声望がなく、驕り高ぶり陰険で、多くの者を処刑し、百姓は騒然とした。また宮女と姦通し、公主孫魯班とも密通した。五鳳元年(254年)、呉侯孫英が孫峻の暗殺を謀ったが、事が漏れて孫英は死んだ。
附伝:留賛(東興の戦い・淮南出兵)
- 五鳳二年(255年)、魏の毋丘倹・文欽が兵を率いて叛き、魏軍と楽嘉で戦った。孫峻は驃騎将軍呂拠・左将軍留賛を率いて寿春を襲ったが、文欽が敗れて降伏したため、軍を還した。
- 『呉書』はいう。留賛、字は正明、会稽郡長山の人。若くして郡吏となり、黄巾の賊将呉桓と戦い、自ら斬って呉桓を得たが、留賛は片足に傷を負い、以後曲がったまま伸びなくなった。しかし性格は激しく、兵書や三史(史記・漢書・後漢書)を好んで読み、古の名将の戦いぶりを見るたびに書物に向かって独り歎息し、近親を呼んで「今、天下は乱れ、英雄が並び起っている、前代を見れば、富貴は必ずしも常人のものではない、しかし私は片足で家に引きこもっているようなもの、生きても死んでも変わりはない、今、この足を切開しようと思う、幸い死なずに足が伸びれば、また用いられることもあろう、死ねばそれまでのことだ」と語った。親戚は皆難色を示したが、しばらくして留賛は自ら刀でその筋を割いた。血が滂沱と流れ、しばらく気を失った。家人は驚き恐れたが、既にこうなった以上と、その足を引き伸ばした。傷が癒えると、足は伸び、跛行できるようになった。
- 凌統がこれを聞き、会見を求めて非常に感嘆し、留賛を上表推薦し、試用されることとなった。たびたび戦功を重ね、次第に屯騎校尉に昇った。時事の得失について常に諫言し、直言を好んで媚びなかったため、孫権はこれを憚った。
- 諸葛恪が東興を征討した際、留賛は前部となり、合戦でまず陣を陥落させ、魏軍を大破し、左将軍に遷った。孫峻が淮南を征した際、留賛に節を授け、左護軍を拝命させた。寿春に至らぬうちに、道中で病が発し、孫峻は留賛に輜重の車を率いて先に還らせた。
- 魏の将蔣班が歩騎四千を率いて留賛を追った。留賛は病が重く、陣を整えることができず、必ず敗れると悟り、天蓋と印綬を弟子に託して帰らせ、「私は将となって以来、敵を破り旗を奪い、負けたことがなかった。今、病が重く兵は弱く、衆寡は敵わない、お前は速やかに去れ、共に死んでも国のためにならず、ただ敵を喜ばせるだけだ」と言った。弟子は受け取ろうとせず、刀を抜いて斬りかかろうとし、それでようやく去った。
- 以前、留賛は将となるたびに、敵に臨むと必ず先に髪を振り乱して天に叫び、声を上げて歌い、左右がこれに応じてから戦に進み、戦えば必ず勝った。敗れるに及んで、「私の戦には常道があるが、今、病が重くこのようだ、まことに運命というものだ」と歎き、そのまま殺された。享年七十三、人々は皆これを惜しんだ。二人の子、留略・留平は共に大将となった。
- この年、蜀の使者が来聘した際、将軍孫儀・孫邵・林恂らはこの会に乗じて孫峻を殺そうとしたが、事が漏れて孫儀らは自殺し、死者は数十人に及び、公主孫魯育もこれに連座した。
広陵築城の失敗と死
- 孫峻は広陵に城を築こうとし、朝臣は不可能と知りながらも彼を恐れて誰も言い出せなかった。ただ滕胤だけがこれを諫めて止めようとしたが聞き入れられず、結局この工事は完成しなかった。
- 翌年、文欽が孫峻に魏征討を説き、孫峻は文欽・呂拠・車騎劉纂・鎮南朱異・前将軍唐咨を遣わして江都から淮水・泗水に入り、青州・徐州を図らせた。孫峻は滕胤と共に石頭まで行き、これを送別する際、従者百人余りを率いて呂拠の陣営に入った。呂拠の軍は統率が整然としており、孫峻はこれを憎んで、心痛を理由に立ち去った。
- やがて孫峻は諸葛恪に打たれる夢を見て、恐怖から病を発して死んだ。享年三十八。後事を孫綝に託した。