三國志卷六十四 吳書十九 諸葛恪

諸葛恪、字は元遜、諸葛瑾の長子(諸葛亮の甥)。幼くして才気煥発で知られ、孫権に重んじられた。丹楊の山越を三年で平定して名声を高め、孫権の死に際し太子太傅・大将軍として遺詔を受け輔政した。東興の戦いで魏の大軍を破る大勝を収めたが、その勢いで新城を攻めて失敗し民心を失った。孫峻の謀略により宴席で誅殺され、一族も滅ぼされた。享年五十一。

年表(3件)

出自と才気

  • 諸葛恪、字は元遜、諸葛瑾の長子である。若くして名を知られた。
  • 『江表伝』はいう。諸葛恪は幼くして才名があり、才気煥発で受け答えが機敏であり、対抗できる者がなかった。孫権はこれを見て奇才とし、諸葛瑾に「藍田は玉を生むというが、まことに嘘ではない」と言った。
  • 『呉録』はいう。諸葛恪は身長七尺六寸、髭眉は薄く、鼻は低く額は広く、口は大きく声は高かった。弱冠で騎都尉を拝命し、顧譚・張休らと共に太子孫登に侍して学問・技芸を講じ、賓客・友人となった。中庶子から転じて左輔都尉となった。
  • 諸葛恪の父諸葛瑾は顔が長くロバに似ていた。孫権が群臣を集めた席で、人にロバを一頭牽き入れさせ、その顔に「諸葛子瑜」と書いた札を掲げさせた。諸葛恪が跪いて「二字を書き足すことをお許しください」と願い出て筆を与えられると、その下に「之驢(の驢馬)」と書き足した。満座が笑い、そのロバは諸葛恪に賜られた。
  • 後日また会見した際、孫権が「お前の父とお前の叔父とではどちらが優れているか」と問うと、諸葛恪は「私の父の方が優れています」と答えた。理由を問われると「私の父は仕えるべき相手を知っていますが、叔父(諸葛亮)は知りません、それゆえ優れているのです」と答え、孫権は大笑いした。
  • 孫権が諸葛恪に酒を注がせると、張昭の前に至った時、張昭は既に酔いの色があり、飲もうとせず「これは老人を敬う礼ではない」と言った。孫権が「お前が張公を言い負かせたら、飲ませよう」と言うと、諸葛恪は張昭に「昔、太公望は九十歳にして旗と鉞を執り、なお老いを告げませんでした。今、軍旅の事では将軍(張昭)は後にあり、酒食の事では将軍は先にあります、これで老人を敬っていないと言えましょうか」と反論した。張昭は何も言えず、杯を飲み干した。
  • 後に蜀と和好を結んだ際、群臣が会した席で、孫権が蜀の使者に「この諸葛恪はふだん馬に乗ることを好むので、帰ったら丞相(諸葛亮)に伝えて良い馬を贈らせよ」と言うと、諸葛恪はすぐに拝謝した。孫権が「馬がまだ来ていないのになぜ拝謝するのか」と問うと、諸葛恪は「蜀は陛下の外の厩のようなものです、今恩詔がありましたから、馬は必ず届きます、どうして拝謝しないでいられましょう」と答えた。諸葛恪の機知はこのようなものばかりであった。
  • 『諸葛恪別伝』はいう。孫権がかつて蜀の使者費禕をもてなす際、あらかじめ群臣に「使者が来ても、食事を続け、立ち上がるな」と命じた。費禕が到着すると孫権は食事の手を止めたが、群臣は立ち上がらなかった。費禕がこれを揶揄して「鳳凰が舞い降りると麒麟も食を吐き出して迎えるものですが、驢馬やラバは何も分からず、いつもどおり食を貪っているのですね」と言うと、諸葛恪は「梧桐を植えて鳳凰を待っているのに、どこの燕や雀が自ら舞い降りたと称するのか。射落として故郷に帰してやらぬのか」と答えた。費禕は食べかけの餅を止め、筆を求めて「麦の賦」を作り、諸葛恪も筆を求めて「磨の賦」を作り、共に称賛された。
  • 孫権がかつて諸葛恪に「近頃どのように楽しんでいて、ますます肥え艶やかになったのか」と問うと、諸葛恪は「富は家を潤し、徳は身を潤すと聞いております。私はあえて楽しんでいるのではなく、ただ己を修めているだけです」と答えた。また「お前は滕胤と比べてどうか」と問われると、「階段を上り履を運ぶような礼儀作法では私は滕胤に及びませんが、策を巡らせることでは滕胤は私に及びません」と答えた。
  • 諸葛恪がかつて孫権に馬を献上した際、先にその耳を切った。範慎がその場におり、「馬は大きな家畜とはいえ、天から気を受けたものです、今その耳を傷つけるのは仁に悖るのではありませんか」と揶揄すると、諸葛恪は「母が娘に対して、恩愛は極まりないものですが、耳に穴を開けて真珠を通すのは、どうして仁を損なうことになりましょう」と答えた。
  • 太子(孫和)がかつて諸葛恪を「諸葛元遜(諸葛恪)は馬糞でも食べられるだろう」とからかうと、諸葛恪は「殿下には鶏卵を召し上がっていただきたい」と答えた。孫権が「人がお前に馬糞を食べさせようとしたのに、お前は人に鶏卵を食べさせようとするのはなぜか」と問うと、諸葛恪は「出てくる所は同じだからです」と答え、孫権は大笑いした。
  • 『江表伝』はいう。かつて白頭の鳥が宮殿の前に集まり、孫権が「これは何という鳥か」と問うと、諸葛恪は「白頭翁(シロガシラ)です」と答えた。張昭は自分が座中で最年長であることから、諸葛恪が鳥にかこつけて自分をからかっていると疑い、「諸葛恪は陛下を欺いています、白頭翁という名の鳥など聞いたことがありません、試しに諸葛恪にもう一度『白頭母』を探させてみましょう」と言った。諸葛恪は「鸚母(インコ)という鳥がいますが、必ずしも対になる鳥がいるとは限りません、試しに輔呉将軍(張昭)にもう一度『鸚父』を探していただきましょう」と答え、張昭は答えられず、座中は皆笑った。
  • 孫権はこれを大いに異とし、事をもって試そうと、節度の職を守らせた。節度は軍糧を掌り、文書が煩雑で、諸葛恪の好みではなかった。
  • 『江表伝』はいう。孫権が呉王となった際、初めて節度官を置き、軍糧を掌らせたが、これは漢制にはないものであった。初めは侍中偏将軍の徐詳が用いられ、徐詳が死ぬと、諸葛恪を用いようとした。諸葛亮はこれを聞き、陸遜に書を送って「兄(諸葛瑾)は年老い、諸葛恪は性質が疎放です。今、糧穀を主管させようとされていますが、糧穀は軍の要中の要です。私は遠くにおりますが、密かに不安を覚えます。あなたから特に至尊(孫権)に申し上げ、他の職に転じさせていただきたい」と言った。陸遜がこれを孫権に告げ、孫権はすぐに諸葛恪を転じて兵を領させた。

丹楊の平定

  • 諸葛恪は丹楊が山険しく、民が果敢で強勇であるため、以前に発した兵では外側の県の平民しか得られなかったと考えていた。その奥深くの地は制圧しきれておらず、たびたび自ら願い出て官として出兵し、三年で甲士四万を得られると述べた。
  • 群議は皆「丹楊は地勢険阻で、呉郡・会稽・新都・鄱陽の四郡に接し、周囲は数千里、山谷は幾重にも重なり、その奥深くに住む民は城邑に出たことがなく、地方官に対しても皆武器を執って野に逃れ、林の中で白髪になるまで過ごす。逃亡者や悪人はみなここに逃げ込む。山には銅鉄が出るので、自ら甲兵を鋳造する。風俗は武を好み戦を習い、気力を尊び、山を登り険を駆けることは、魚が淵を泳ぎ、猿が木を渡るがごとくである。時に隙をうかがって出て寇盗となり、討伐の兵を差し向けるたびに巣穴に潜んでしまう。戦えば蜂のように群がり、敗れれば鳥のように散り、前代よりこのかた制御できたためしがない」として、皆これを難しいこととした。
  • 諸葛恪の父諸葛瑾もこれを聞き、事が結局成らないだろうと考え、「諸葛恪は我が家を大いに興すのではなく、大いに我が一族を滅ぼすことになるだろう」と歎いた。
  • 諸葛恪は必ず成功すると盛んに主張し、孫権は諸葛恪を撫越将軍に任じ、丹楊太守を兼ねさせ、儀仗の戟と武騎三百を授けた。拝命の儀の後、諸葛恪に威儀を整えさせ、鼓吹を鳴らして家に導き帰らせた。この時、三十二歳であった。
  • 諸葛恪は郡府に着くと、四部の属城の長にそれぞれ命令書を送り、各々その境界を守り、部伍を明らかに立て、帰順した平民は全て屯居させるよう命じた。そして内部の諸将を分けて、要害の地に兵を配し、ただ柵を修繕するだけで交戦はせず、穀物が実る頃を見計らって兵を放って刈り取らせ、種を残さないようにした。旧穀が尽き、新田の収穫もなく、平民が屯居して収入がほとんどない状態になると、山中の民は飢窮して次第に降伏するようになった。
  • 諸葛恪はまた布告を下し、「山民が悪を去って教化に従うなら、皆撫慰し、外の県に移すべきであり、疑いをかけて拘束してはならない」と命じた。臼陽の長胡伉が降民の周遺を捕らえた際、周遺は以前悪事を働いた者で、困窮して一時的に出てきたが、内心では叛逆を図っていたため、胡伉はこれを縛って郡府に報告した。諸葛恪は胡伉が命令に違反したとして、斬って人々に示し、その顛末を上表した。民はこれを聞いて、官が捕らえた者を処罰したことを知り、官がただ彼らを(山から)出すことのみを望んでいるのだと理解し、老幼が互いに手を取り合って山を出た。一年ほどで、人数は当初の見込みどおりとなった。諸葛恪は自ら一万人を率い、残りは諸将に分け与えた。

薛綜の慰労

  • 孫権はその功を嘉し、尚書僕射の薛綜を遣わして軍を慰労させた。薛綜はまず諸葛恪らに次のような文書を送った。
  • 山越は険阻を頼みに歴代従わなかった。緩めれば首鼠両端の態度を取り、急げば凶暴になった。皇帝は決然として西征の将を命じ、神算を内に授け武威を外に轟かせた。兵は刃を血に染めず、甲は汗すら流さなかった。首魁は既に梟首され、その一党は帰順し、山藪を一掃して十万の兵を得た。野に賊は残らず、邑に悪徒はいなくなった。凶悪を掃討し、また軍用にも充てられた。雑草は良質の穀物に変わり、魑魅魍魎の地はまた虎の住む活気ある土地となった。これは実に国家の威霊が加わった結果であるが、また将帥の統率の賜物でもある。『詩経』は捕虜を執ることを賛美し、『易経』は首魁を斬ることを称えるが、周の方叔・召虎、漢の衛青・霍去病といえども、これに及ぶだろうか。功績は古人を凌ぎ、勲功は前代を超えている。主上は歓喜し、遠くにあって感嘆されている。『詩経』四牡の遺意を感じ、凱旋の礼の古の典章を思い、それゆえ中台の近臣を遣わして労いを届け、その大功を旌彰し、労苦を慰めるものである。

威北将軍から丞相輔政まで

  • 諸葛恪は威北将軍を拝命し、都郷侯に封じられた。廬江の皖口に兵を率いて屯田することを願い出て、軽兵で舒県を襲い、その民を掠め取って帰った。また遠く斥候を送り、要地の道を観察し、寿春を図ろうとしたが、孫権はこれを不可とした。
  • 赤烏年間、魏の司馬懿が諸葛恪を攻めようと謀った。孫権はまさに兵を発してこれに応じようとしたが、望気者がこれを不利とみたため、諸葛恪を柴桑に移し駐屯させた。
  • 諸葛恪は丞相陸遜に書を送った(その中で、士人の評価は完璧を求めるべきでないこと、当代の人材登用は寛容であるべきことを説き、些細な過失を厳しく責めれば人材が損なわれ、漢末以来の士大夫の相互誹謗の弊害を招くと論じた)。
  • 諸葛恪は陸遜がこの書によって自分を嫌っていることを知り、あえてその論を広げてその趣旨を敷衍したのだった。ちょうど陸遜が没し、諸葛恪は大将軍に遷り、仮節を授けられ、武昌に駐屯し、陸遜に代わって荊州の事を領した。

孫権の遺詔輔政

  • しばらくして、孫権は病に伏し、太子(孫亮)はまだ幼かったため、諸葛恪を大将軍のまま太子太傅に任じ、中書令孫弘を少傅とした。孫権の病が重くなると、諸葛恪・孫弘及び太常滕胤、将軍呂拠、侍中孫峻を召し、後事を託した。
  • 『呉書』はいう。孫権が病床にあり、後事の託し方を議した。この時、朝臣は皆諸葛恪に注目していたが、孫峻も諸葛恪の器量が輔政を任せるに足ると上表した。孫権は諸葛恪の剛直で独断的な性質を嫌っていたが、孫峻は当代の朝臣で及ぶ者はいないと固く保証したので、諸葛恪を召した。後に諸葛恪らを寝室に招き入れ、詔を寝台の下で受けさせた。孫権は「私の病は重い、もう二度と会えないかもしれない、諸事を全てあなたに委ねる」と詔した。諸葛恪はすすり泣きながら「私どもは皆厚恩を受けており、死をもって詔にお応えします、どうか陛下は精神を安んじ、思慮を減らし、外の事はお考えにならないでください」と言った。孫権は関係諸官に、諸事を諸葛恪に一任し、生殺の大事のみ奏上させるよう詔した。諸葛恪のために邸宅・館を築き、護衛を配し、群官百司が拝謁する儀礼にも各々序列を定めた。諸法令に不便なものがあれば、条列して奏上し、孫権はそのたびに聞き入れた。内外は皆和し、人々は喜びに満ちた。

孫弘の誅殺

  • 翌日、孫権は薨じた。孫弘はふだんから諸葛恪と不仲で、諸葛恪に処罰されることを恐れ、孫権の死を秘して、偽の詔で諸葛恪を除こうとした。孫峻がこれを諸葛恪に告げると、諸葛恪は孫弘を政務の相談と称して呼び出し、その場で誅殺し、それから喪を発して服喪の礼を始めた。
  • 諸葛恪は弟の公安督諸葛融に書を送った(今月十六日乙未に大行皇帝〔孫権〕が崩御し、皇太子は丁酉に帝位に即いたこと、自らが顧命を受けて幼主を輔佐する重責を担うことへの恐懼、辺境の守りを厳にして万一に備えるべきことなどを述べた)。

太傅として恩政

  • 諸葛恪はさらに太傅を拝命した。そこで監視の耳目を廃し、監察官を止め、滞納の債務を免じ、関税を除くなど、恩沢を重んじる政をなし、人々は皆喜んだ。諸葛恪が出入りするたびに、百姓は首を伸ばしてその姿を見ようとした。

東興の戦い

  • かつて孫権は黄龍元年(229年)に建業に遷都した。黄龍二年(230年)、東興に堤を築いて湖水を堰き止めた。後に淮南に出兵して敗れ、水軍が入れなくなったため、この堤は廃されて修理されなくなっていた。
  • 諸葛恪は建興元年(252年)十月、東興に兵を集め、改めて大堤を築き、左右の山を挟んで両城を築き、それぞれ千人を留めて全端・留略に守らせ、軍を率いて戻った。
  • 魏は呉軍が自国の領土に入ったことを恥辱とし、大将胡遵・諸葛誕らに七万の兵を率いさせ、両塢を攻囲し堤防を破壊しようとした。諸葛恪は四万の兵を興し、昼夜を問わず救援に赴いた。
  • 胡遵らは諸軍に浮橋を作らせて渡らせ、堤の上に陣を布いて兵を分け両城を攻めた。城は高峻で急には落とせなかった。諸葛恪は将軍留賛・呂拠・唐咨・丁奉を前部として派遣した。時に天候は寒く雪が降っており、魏の諸将は集まって酒を飲んでいたが、留賛らの兵が少なく、鎧を脱いで矛戟を持たず、ただ兜と刀楯だけで堤を這い登ってくるのを見て大笑いし、すぐには軍備を整えなかった。呉兵が堤に上ると、鼓を鳴らし喚声を上げて斬りかかった。魏軍は驚いて散り散りに逃げ、我先にと浮橋を渡ろうとしたが、橋が壊れ絶たれると、水に身を投げ、互いに踏みつけ合った。楽安太守桓嘉らも同時に溺死し、死者は数万に及んだ。かつて叛いた将軍韓綜は魏の前軍督となっていたが、これも斬られた。車馬・牛馬・驢馬・ラバをそれぞれ数千得て、物資は山のように積まれ、軍を整えて凱旋した。
  • 諸葛恪は陽都侯に進封され、荊揚州牧を加えられ、中外の諸軍事を督し、金百斤・馬二百匹・繒布各万匹を賜った。

魏への再出兵と論

  • 諸葛恪はこの勝利によって敵を軽んじる心を抱くようになった。十二月の戦勝の後、翌年の春、再び出兵しようとした。
  • 『漢晋春秋』はいう。諸葛恪は司馬の李衡を蜀に遣わして姜維に説き、共に挙兵するよう促した(曹魏の政治が私門にあり、内外に猜疑があり、外では兵が挫け内では民が怨んでいる今こそ好機であり、呉が東を攻め蜀が西に入れば、魏は東西どちらかが手薄になり、精鋭で虚を突けば必ず破れると説いた)。姜維はこれに従った。
  • 諸大臣は度重なる出兵で疲弊すると考え、口を揃えて諸葛恪を諫めたが、諸葛恪は聞き入れなかった。中散大夫の蔣延はあくまで争ったため、引きずり出された。諸葛恪は論を著して衆意を諭した(天に二つの太陽がないように王も二人はありえず、諸侯が兵の強さと地の広さを恃んで安逸を貪れば秦に併呑された戦国の故事、劉表が曹操の弱小な時期に対峙せず座視して結局降伏した故事、呉が越を滅ぼさなかった故事などを引き、今は魏の兵力がかつての曹操期に比して衰え、司馬懿も死してその子は幼弱であり、まさに攻めるべき好機であること、今攻めなければ十数年後には魏の民が増え国力が回復し攻める好機を失うことを説いた)。
  • 人々は皆この論が諸葛恪の出兵を正当化するための弁明だと考えたが、あえて再び異を唱える者はいなかった。

聶友の諫めと出兵

  • 丹楊太守の聶友は日頃から諸葛恪と親しく、書を送って諫めた(大行皇帝〔孫権〕にはもともと東関を堰き止める計画があり、まだ実行されていなかったところ、諸葛恪がこれを助け成し遂げたのは先帝の志を成就させたものであり、敵が遠くから攻めてきて敗れたのは幸運であった、今は兵を休め鋭気を養い、隙をうかがって動くべきで、この勢いに乗じて再び大挙出兵するのは時機が悪いと述べた)。
  • 諸葛恪はこの論の後ろに書き添え、聶友に答える書とした(聶友の言うことにも道理はあるが、大局を見ていない、この論をよく読めば理解できるだろうと述べた)。
  • こうして諸葛恪は衆議に逆らって出兵し、州郡から大々的に二十万の兵を発したため、百姓は騒動し、初めて人心を失った。

新城攻めの失敗

  • 諸葛恪は淮南に威を示し、民を掠め取って連行しようとしたが、諸将の中にはこれを難じ、「今、軍を深く進めれば、辺境の民は必ず遠くへ逃げてしまい、兵は疲れ功は少ないでしょう。新城を包囲するにとどめる方がよいでしょう。新城が困窮すれば必ず救援が来ます、それを迎え撃てば大きな戦果を得られます」と言う者がいた。諸葛恪はこの計に従い、軍を返して新城を包囲した。
  • 攻囲は数ヶ月に及んだが、城は落ちなかった。士卒は疲労し、暑さのため水を飲んで下痢や浮腫を患い、病人が半ばを超え、死傷者は地に満ちた。諸営の吏が日々病人の多さを報告すると、諸葛恪はこれを偽りと考え斬ろうとしたため、それ以来誰も報告しなくなった。諸葛恪は内心では失策を悟りながらも、城を落とせないことを恥じ、怒りを顔に表した。将軍朱異が是非を論じると、諸葛恪は怒ってすぐにその兵権を奪った。都尉蔡林はしばしば軍略を進言したが、諸葛恪が用いなかったため、馬を馳せて魏に投降した。
  • 魏は呉の兵が疲弊していることを知り、救援軍を進めた。諸葛恪は軍を引いて撤退した。士卒は傷病を負い、道路に倒れ伏し、あるいは谷間に転落し、あるいは捕虜となった。人々は憤りと痛みを胸に大小の声で嘆いたが、諸葛恪はのんびりと平然としていた。江の中州に一月留まり、潯陽で屯田を興そうとし、詔の召還が相次いでようやく軍を返した。これにより人々は失望し、怨みの声が興った。

孫弘に続く粛清と孫峻の陰謀

  • 秋八月、軍が還り、兵を陳ねて先導させ、邸宅に入った。諸葛恪はすぐに中書令孫嘿を召し、厳しい声で「お前たちはどうしてみだりに詔を何度も作ったのか」と詰問した。孫嘿は恐れおののいて退出し、病と称して家に戻った。諸葛恪は出征から戻って以降、以前に諸曹が上奏し任命した令長らの職を全て罷免して選び直し、いよいよ威厳を増し、多くの者に罪を負わせたため、拝謁する者は皆震え上がった。また宿衛を改め、自分の側近を用いた。さらに兵の警戒を命じ、青・徐に向かおうとした。
  • 孫峻は民の多くの怨みと人々の疑念に乗じ、諸葛恪が変を起こそうとしていると讒言し、孫亮と謀って酒宴を設け諸葛恪を招いた。
  • 諸葛恪が参内する前夜、精神が落ち着かず、一晩中眠れなかった。翌朝、洗顔しようとすると水が生臭く、侍者が衣を渡すとその衣も臭った。諸葛恪は不審に思い、衣も水も替えたが、臭いは変わらず、心は晴れなかった。身支度を終えて出かけようとすると、犬がその衣の裾を銜えて引いた。諸葛恪は「犬も私に行くなと言うのか」と言い、席に戻ったが、しばらくしてまた立ち上がろうとすると、犬が再びその衣を銜えたので、従者に犬を追い払わせ、車に乗った。
  • 以前、諸葛恪が淮南に出征しようとした際、喪服を着た孝子が彼の館の中に入り込んだことがあり、従者がこれを告げ問い詰めさせると、孝子は「自分でも気づかず入り込んでしまった」と言った。当時、内外の守備は皆これを見ていなかったため、人々はこれを異とした。出征した後、彼が座っていた庁舎の屋根の梁が真ん中から折れた。新城から東興に出た際には、白い虹が彼の船にかかり、帰って蒋陵に拝礼した際にも、白い虹がまた彼の車を取り巻いた。
  • 参内の際、宮門で車を止めると、孫峻は既に幕の中に伏兵を置いていたが、諸葛恪がすぐに入らず事が漏れることを恐れ、自ら出て諸葛恪に会い、「もし体調がすぐれないなら後日にされてはいかがですか、私から陛下に申し上げます」と言い、諸葛恪の様子をうかがおうとした。諸葛恪は「無理をしてでも入りましょう」と答えた。
  • 散騎常侍の張約・朱恩らが密かに書を諸葛恪に送り、「今日の設宴は尋常ではありません、何か他の企みがあるのではと疑われます」と告げた。諸葛恪はこの書を読んで引き返そうとしたが、路門を出る前に太常滕胤に会った。諸葛恪が「急に腹痛がして、人と会える状態ではない」と言うと、滕胤は孫峻の陰謀を知らず、「あなたは出征から戻って以来まだ帝にお目にかかっていません、今、陛下が酒を用意してあなたを招いておられます、あなたは既に門まで来ているのですから、無理をしてでも進むべきです」と言った。諸葛恪はためらいながらも引き返し、剣を帯び履を履いたまま殿に上がった。
  • 孫亮に拝謝し、席に戻った。酒が出されたが、諸葛恪は疑って飲もうとしなかった。孫峻は「あなたの病がまだ完全に治っていないなら、いつも服用している薬酒があるでしょう、それをお取りください」と言った。諸葛恪はそれで安心し、別に持参させた酒を飲んだ。
  • 『呉暦』はいう。張約・朱恩は密かに書を諸葛恪に告げ、諸葛恪はこれを滕胤に見せた。滕胤は諸葛恪に引き返すよう勧めたが、諸葛恪は「孫峻ごとき小僧に何ができようか、ただ酒食に毒を盛られることだけを恐れている」と言い、薬酒を持ち込ませた。孫盛が評していう。諸葛恪は滕胤と親しく、張約らとは疎遠であった、これほどの重大事であれば当然滕胤に打ち明け共に安危を謀るべきであった。しかし諸葛恪の性質は強情で、かねて孫峻を侮っており、自分から信じようとしなかった、それゆえ参内したのであって、どうして滕胤がわずかに勧めたことで危険を冒したと言えようか。『呉暦』の記述の方が理にかなっている。
  • 酒が数巡すると、孫亮は内に戻り、孫峻は厠に立つふりをして長い上衣を脱ぎ、短い服に着替え、出てきて「詔あり、諸葛恪を捕らえよ」と称した。
  • 『呉録』はいう。孫峻は刀を提げて詔と称し諸葛恪を捕らえようとすると、孫亮は立ち上がって「私のしたことではない、私のしたことではない」と言い、乳母が孫亮を連れて内に戻った。『呉暦』は、孫峻がまず孫亮を先に内に入れ、その後で出て詔と称したとしており、本伝と同じである。臣松之案ずるに、孫峻が詔と称しようとしたのならば、本伝及び『呉暦』の記述のとおりであるべきで、『呉録』の言うようなことはあり得ない。
  • 諸葛恪は驚いて立ち上がったが、剣を抜く前に、孫峻の刀が交錯して振り下ろされた。張約が傍らから孫峻に斬りかかり、かろうじて左手に傷を負わせたが、孫峻は応じて張約の右腕を斬り落とした。武衛の兵士たちが皆殿に駆け上がると、孫峻は「捕らえるべきは諸葛恪だ、既に死んだ」と言い、全員に刃を収めさせ、床を清めて改めて酒宴を続けさせた。
  • 『捜神記』はいう。諸葛恪が参内し既に殺された頃、その妻は自室にいて、侍女に「お前はなぜ血の臭いがするのか」と尋ねた。侍女は「そんなことはありません」と答えたが、しばらくすると様子がひどくなり、また侍女に「お前の目つきはどうしていつもと違うのか」と問うと、侍女は突然跳ね起き頭を梁に打ちつけ、腕をまくり歯を食いしばって「諸葛公は孫峻に殺された」と言った。これにより大小の者は皆諸葛恪の死を知り、間もなく官吏と兵がやって来た。
  • 『志林』はいう。かつて孫権が重病となり、諸葛恪を召して輔政させた。出立の際、大司馬呂岱がこれを戒めて「世は今まさに多難であり、あなたは何事にも必ず十度思案すべきだ」と言った。諸葛恪は「昔、季文子は三度思案してから行動したが、孔子は『二度で十分だ』と言った、今あなたは私に十度思案せよと言うが、これは私の劣ることを示しているようなものだ」と答えた。呂岱は答えることができず、当時、人々は呂岱の方が失言だと言った。
  • 虞喜はいう(天下を託されることは至って重く、臣下の身で君主の威権を行うことは至難である。この両方を兼ねて万機を統べて、なお全うできる者は稀である。衆謀を採り入れ、下々の意見にも耳を傾け、謙虚に人を受け入れ、常に足りないと思わなければ、功名も勲績も成し遂げられない。まして呂岱は国の先輩であり、智略は深遠であったのに、諸葛恪はわずか十思の戒めを聞いただけで自分の劣りを示されたとして拒んだ、これは諸葛恪の粗忽さであり、機知はあっても神慮に欠けていたということである。もし十思の意義に基づいて広く当世の務めを諮り、善言を聞けば雷のように速やかに動き、諫言に従うことを風のように急いでいたならば、どうして殿堂で首を落とされ、凶悪な者の刃に死ぬことがあっただろうか。世人はその英邁な弁舌を奇として、その場限りの当意即妙を見るべきものとする一方、呂岱が返答できなかったことを陋劣だと嘲るが、安危終始の配慮を思わないのは、春の花の華やかさを喜んで秋の実りの甘さを忘れるようなものである。昔、魏が蜀を討った際、蜀がこれに応戦し、軍備を整え六軍が動員される中、費禕は元帥として国の重責を担いながら、来敏と囲碁を打って倦むことがなかった。来敏が別れ際に費禕に「あなたは必ず賊を処理できる人物だ」と言ったのは、その明察が内に定まり、顔に憂色を見せなかったことを言うものであるが、まして長寧(張裔)は君子たる者、事に臨んでは恐れ、謀を好んで成し遂げるものだと考えていた。しかも蜀は小国であり、大敵を前にしているのだから、なすべきは守りと戦いのみであるはずなのに、どうして自らを誇り安逸として憂いの色を見せずにいられようか。これは性質の寛大さから細事に備えなかったためであり、結局は降人郭脩に殺された、これは彼の兆しが向こう〔蜀〕に現れ、禍がこちら〔費禕自身〕に成ったということではないか。以前、長寧が文偉〔費禕〕を評したことを聞き、今また元遜〔諸葛恪〕が呂岱に逆らったことを見た、この二つの事は本質が同じであるので、併せて記し、後世への鑑戒とし、永く戒めとしたい)。

死後の処置

  • これより先、童謡に「諸葛恪、蘆葦の単衣に篾の帯、どこで探そうか成子閣」というものがあった。成子閣とは、逆さに読めば石子岡である。建業の面に長い丘があり、石子岡と呼ばれ、(処刑された者の)葬地とされていた。鉤落とは、革帯を飾る留め金で、世に鉤絡帯と呼ばれるものである。諸葛恪は果たして葦の莚でその身を包み、篾で腰を束ねられて、この丘に投げ込まれた。
  • 『呉録』はいう。諸葛恪はこの時五十一歳であった。諸葛恪の長子諸葛綽は騎都尉であったが、魯王(孫覇)との交流の一件があり、孫権が諸葛恪に引き渡して改めて教誨させたところ、諸葛恪は毒を飲ませて殺した。次子の諸葛竦は長水校尉、末子の諸葛建は歩兵校尉であった。諸葛恪誅殺の報を聞き、母を車に乗せて逃げた。孫峻は騎督の劉承を遣わして白都で諸葛竦を追い斬った。諸葛建は江を渡ることができ、魏に北走しようとし、数千里を行ったが、追手に捕らえられた。諸葛恪の甥の都郷侯張震及び常侍朱恩らも、皆三族を夷(滅)ぼされた。

臧均の上表

  • 以前、諸葛竦はしばしば諸葛恪を諫めたが、諸葛恪は従わず、常に禍を恐れていた。諸葛恪の死後、臨淮の臧均は上表して諸葛恪の遺骸を収葬することを願い出た(激しい雷雨も一日中は続かず、その後には雲や雨が続いて万物を潤すように、天地の威も帝王の怒りも際限なく続けるべきではないと述べ、諸葛恪が祖先の遺風を承け、先帝の厚い信任を得ながら、剛愎で人を見下し、専権を振るって国を疲弊させたことを認めつつも、これを誅した孫峻らの功を称え、既に死んだ者の遺骸に対してはこれ以上罰を加える必要はなく、旧知の者に士卒並みの服で収葬させ、簡素な棺を与えることを願い、項羽や韓信の例を引いて、聖朝の仁徳を示すよう求めた)。
  • こうして孫亮・孫峻は諸葛恪の旧吏が遺骸を収めて葬ることを聴し、石子岡でこれを求めた。
  • 『江表伝』はいう。朝臣の中に諸葛恪のために碑を立ててその勲績を刻もうと願い出る者がいたが、博士盛沖はこれに反対だとした。孫休は「盛夏に出兵し、士卒を損なって、寸尺の功もなかったのだから、有能とは言えない。顧命の重責を受けながら、小人の手にかかって死んだのだから、智者とは言えない。盛沖の議論は正しい」と言い、この案は沙汰止みとなった。

附伝:聶友

  • 以前、諸葛恪が軍を退いて戻った時、聶友はその敗を予見していた。滕胤に書を送り「かつて人(諸葛恪)が強盛であった時には、河山さえ動かせるほどであったのに、ひとたび衰えれば人の心は千々に乱れる、これを言うと悲しくなる」と述べた。諸葛恪の誅殺の後、孫峻は聶友を忌み、鬱林太守に転出させようとした。聶友は病を発して憂え死んだ。
  • 聶友、字は文悌、豫章の人。『呉録』はいう。聶友は弁舌に優れ、若くして県吏となった。虞翻が交州に流された際、県令が聶友に送らせたところ、虞翻は語らってこれを奇才とし、豫章太守の謝斐に書を送って功曹に任じるよう求めた。郡には既に功曹がいたが、謝斐は聶友に会い「県吏の聶友は何の職に堪えるか」と問うと、「この者は県の小吏に過ぎませんが、曹佐には堪えるでしょう」と答える者がいた。謝斐は「議論する者はこれを功曹に任じるべきだと言っている、あなたは(曹佐という意見を)避けるべきだ」と言い、聶友を功曹に任じた。
  • 都に使いした際、諸葛恪が友となった。当時の論評は「顧子嘿(顧承)と顧子直(顧譚)の間には他の者が入り込む余地がない」とされていたが、諸葛恪は聶友をその間に置こうとし、これにより聶友は名を知られるようになった。後に将となり、儋耳を討ち、帰って丹楊太守を拝命し、三十三歳で没した。