三國志卷五十六 吳書十一 朱桓
朱桓、字は休穆、呉郡呉県の人(?–赤烏元年、享年62)。濡須督として曹仁の攻撃を撃退し、皖の戦いでも功を挙げた勇将。自負が強く上下関係で衝突することもあったが、財を軽んじ吏士を慈しみ人望を集めた。子の朱異も将として重んじられた。
濡須の戦い
- 朱桓は字を休穆といい、呉郡呉県の人である。孫権が将軍であった頃、桓は幕府に仕え餘姚長に除せられた。折しも疫病が流行り穀物が高騰した際、桓は良吏を分けて配置し自ら医薬を届け粥を配り続け、士民はその恩に感謝した。蕩寇校尉に遷り兵二千人を授かり呉・会稽二郡の民を統括させると、離散した民を一年で万人余り集めた。のち丹楊・鄱陽の山賊が蜂起し城郭を破り長吏を殺害するに及び、桓は諸将を率いて各地を討伐し、いずれも平定した。次第に裨将軍に遷り新城亭侯に封じられた。のち周泰に代わり濡須督となった。
- 黄武元年(222年)、魏の大司馬曹仁が数万の歩騎で濡須に向かい、実は州上を奇襲する意図を隠して東の羨渓を攻めると偽り触れ回った。桓は羨渓へ兵を分けようとし、出発した後に曹仁の軍が突如濡須の七十里内まで進んでいることを知った。桓は使者を出し羨渓の兵を呼び戻したが、間に合わず仁が急襲した。時に桓の手元と麾下の兵は僅か五千人で諸将は動揺したが、桓は「両軍が対峙する時、勝敗は将にあり兵の多寡にはない。曹仁の用兵と自分を比べればどうか」と説き、平地でこそ数の優劣が意味を持つのであって、こちらは高城に拠り長江を臨み山を背に逸を以て労を待つ有利な立場にあると諭し、たとえ曹丕自身が来ても恐れるに足らないと士気を鼓舞した。桓は旗鼓を伏せ弱勢を装って仁を誘い込んだ。仁は果たして子の曹泰に濡須城を攻めさせ、将軍常雕に諸葛虔・王双らを督させ油船に乗じて中洲(部曲の妻子のいる地)を奇襲させ、仁自身は一万の兵を橐皋に留めて泰らの後詰めとした。桓は一部で油船を攻め取らせ他方で自ら曹泰を拒み、陣営を焼いて退かせ、常雕を梟し王双を生け捕って武昌に送り、戦場で斬殺・溺死させた者は千余に及んだ。権は桓の功を嘉して嘉興侯に封じ奮武将軍に遷し彭城相を領させた。
皖の戦いと性格
- 黄武七年(228年)、鄱陽太守の周魴が魏の大司馬曹休を偽って誘い込むと、休は歩騎十万を率いて皖城に迎え撃った。陸遜が元帥となり、全琮と桓が左右の督としてそれぞれ三万人を率いて休を撃った。休は欺かれたことを知り軍を返そうとしたが、自軍の多さを恃んで一戦を仕掛けようとした。桓は「休は元来外戚として重用された将で智勇に優れた名将ではない。この戦は必ず敗れ、敗れれば夾石・掛車の険阻な二道を通ることになる。この二道を万の兵で塞げば敵を全滅させることができ、休も生け捕りにできる。もし成功すれば勝ちに乗じて壽春を取り、許・洛をも窺うことができる、これは万世に一度の好機」と献策したが、権は先に陸遜に諮り、遜が不可としたためこの策は実行されなかった。
- 黄龍元年(229年)、桓は前将軍を拝命し青州牧を領し仮節を授かった。嘉禾六年(237年)、魏の廬江主簿呂習が大軍を迎え城門を開こうと申し出た。桓は衛将軍全琮と共に迎えたが、着いた時には事が露見しており撤退することになった。城外に一里ほど離れた場所に幅三十余丈、深さ八九尺から半分ほどの溪水があり、諸軍が渡って撤退する中、桓は自ら殿軍を務めた。廬江太守の李膺は兵騎を整え半渡を狙い攻撃しようとしたが、桓の節と旗印が最後尾にあるのを見て結局出撃しなかった、それほどに桓は畏れられていた。このとき全琮が全軍の督であったが、権はさらに偏将軍胡綜に詔命を伝えさせ軍事に参与させた。琮は成果のなかったことから諸将を再編し何らかの襲撃を計画しようとした。桓は元来自負が強く配下として扱われることを恥じ、琮のもとへ真意を問いただしに行き激高して口論となった。琮が「陛下自ら胡綜を督とせよと命じられ、綜の意でそう決めた」と弁明すると、桓はさらに憤り、人をやって綜を呼び出させた。綜が軍門に至ると桓は自ら迎えに出て、左右に「私が手を出したら各自逃げよ」と告げたが、そばにいた一人がこっそり抜け出し綜に戻るよう告げた。
- 桓は出てきたが綜に会わず、左右の者の仕業と知り、その者を斬殺した。桓は佐軍の諫めを容れず佐軍を刺殺し、狂病を装って建業へ療養に赴いた。権はその功績を惜しみ罪に問わなかった。裴松之注に引く孫盛の評は、桓の残忍さを虎狼に譬え厳しく批判した。朱異を代わりに部曲を統率させ医者に護らせ、数ヶ月後にまた中洲へ戻した。権は自ら見送りに出て「今なお敵が残り天下は未だ一つにならない。私は君と共に天下を平らげたいと思う。今後は五万の兵を専任させ進取を図りたいが、君の病はもう再発しないであろうか」と語りかけると、桓は「陛下は聖なる姿を天よりお授かりになり、天下に君臨されるべき方です。過分にも重責をお任せくださり奸逆を除くお役目、この病はきっと自ら癒えましょう」と答えた(『呉録』によれば、桓は杯を捧げ「遠くへ旅立つ前に、陛下の御髭に触れさせていただきたく、それができれば思い残すことはございません」と願い出、権は几に凭れかかり座を進めて許すと、桓は進み出て髭に触れ「臣、今日まことに虎の髭に触れたと申せましょう」と述べ、権は大いに笑った)。
- 桓は自負が強く人の下風に立つことを恥じる性質で、敵と対峙するたびに指揮権が自らの思うようにならないと激しく憤った。しかし財を軽んじ義を重んじ、記憶力にも優れ、一度会った人を数十年経っても忘れず、部曲一万人とその妻子までことごとく覚えていた。吏士を慈しみ養い、親族を厚く庇護し、俸禄や財産は皆分け与えた。桓が病に苦しむようになると全軍が憂え悲しんだ。享年六十二、赤烏元年(238年)に没した。吏士男女は皆声を上げて悲しんだ。家に余財がなかったため、権は塩五千斛を賜って葬儀の費用に充てさせた。子の朱異が跡を継いだ。
朱桓子 異――生涯
- 異は字を季文といい、父の任により郎に除せられた(裴松之注に引く『文士伝』によれば、張惇の子の張純・張儼・朱異が幼少期に共に驃騎将軍朱拠のもとを訪れた際、拠が三人の才を試そうと即興で詠物させたところ、儼は犬を、純は席を、異は弩を題材にそれぞれ機知に富んだ句を詠み、拠は大いに喜んだという)。のち騎都尉を拝命し桓に代わり兵を領した。赤烏四年(241年)、朱然に従い魏の樊城を攻めた際にその外囲を破る計を立て、戻って偏将軍を拝命した。魏の廬江太守文欽が六安に営を構え屯塞を多く設け要所に配置し逃亡者を招き寄せ辺境の害となっていたため、異は自ら手勢二千人を率いて欽の七屯を急襲し数百人を斬り、揚武将軍に遷った。権は攻戦について異と論じ、その受け答えは意にかなうものであった。権は異の従父である驃騎将軍朱拠に「もとより季文の胆力の確かさは知っていたが、実見してみると聞きしに勝る」と語った。
- 十三年(250年)、文欽が偽って降伏を申し出、密書を異に送って自ら迎えに来るよう求めた。異は欽の書を上表しその偽りを陳べ、迎えるべきではないと述べたが、権は詔して「北方はまだ統一されておらず、欽が帰順を望むならひとまず迎え入れるべきである。詐りが疑われるなら計略を巡らし重兵で備えればよい」と命じた。呂拠に二万人を督させ、異と共に力を合わせ北の境界に至らせたが、欽は果たして降らなかった。建興元年(252年)、鎮南将軍に遷った。この年、魏が胡遵・諸葛誕らを遣わし東興に出兵すると、異は水軍を率いて浮橋を攻め破壊し、魏軍は大敗した(『呉書』によれば、異はその後諸葛恪に従い新城を包囲したが落とせず、異らは速やかに豫章に戻り石頭城を襲えば数日で落とせると進言したが、恪は書をもって反論し、異は「私の計を用いず、あの卑しい者の言葉を用いるのか」と地に書を投げつけたため恪は激怒しその兵を奪い、異は建業に廃された)。太平二年(257年)、仮節・大都督となり壽春の包囲を救おうとしたが解けなかった。軍を還すと孫綝に無実の罪で害された(『呉書』によれば、綝が異に面会を求めた際、陸抗が止めるのを異は「子通(陸抗)は家族同然の者、何を疑う必要があろうか」と言って赴いたところ、綝は力士に命じて異を捕らえさせた。異は「私は呉国の忠臣である、何の罪があろうか」と叫んだが引き裂かれて殺された)。
史論
- 評して言う。朱治・呂範は旧臣として重用され、朱然・朱桓は勇烈をもって聞こえ、呂拠・朱異・施績は皆将としての才を備え、家業をよく継承した。範・桓のように規矩を踰えるところがありながら天寿を全うできた者もあれば、拠・異のようにそうした過ちがなくとも殃に遭った者もある。これは時勢の巡り合わせが異なったためである。