三國志卷五十六 吳書十一 呂範
呂範、字は子衡、汝南郡細陽県の人(?–黄武7年)。若くして孫策に帰し軍紀の統率にあたり、赤壁の戦いにも従軍した。晩年は建業を鎮め揚州牧に至ったが、印綬を受ける前に病没した。孫権に呉漢に比され重んじられた呉の重臣である。子の呂拠も将として活躍した。
出自と孫策への臣従
- 呂範は字を子衡といい、汝南郡細陽県の人である。若くして県吏となり、容貌に優れていた。同郷の劉氏は家が富み娘が美しく、範がこれに求婚した。娘の母は範の貧しさを嫌い断ろうとしたが、劉氏は範の器量を見込んでこの縁談を進めた。のち乱を避けて寿春に至り、孫策がこれを見て非凡と認め、範は自ら身を委ね私客百人を率いて策に帰した。太妃が江都にいた際、策は範を遣わして迎えさせたが、徐州牧の陶謙は範を袁氏の間者と疑い、県に命じて範を拷問しようとし、範の親しい壮士たちがこれを奪い返して連れ戻った。当時、範と孫河だけが常に策に従い、艱難を厭わなかったため、策も親族同様に厚遇した。
- のち策に従い廬江を破り共に東渡し、横江・当利で長英・於麋を破り、小丹楊・湖孰を下し湖孰相を領した。策が秣陵・曲阿を平定し、笮融・劉繇の残党を収めると、範の兵は二千、騎兵五十匹に増やされた。のち宛陵令を領し丹楊の賊を討ち破り、呉に戻り都督に遷った(『江表伝』によれば、策の軍紀の乱れを憂えた範が自ら都督を代行して整えたいと願い出、策は当初「卿はすでに士大夫であり大衆を率いているのに、なぜ細々とした職務を担うのか」と辞退させようとしたが、範は「舟を同じくして海を渡るようなもので、一つでも欠ければ共に破滅する。これは将軍のためだけではなく私自身のための計でもある」と答え、策はこれを笑って認め、以後軍中は粛然と治まった)。
軍功と都督
- 下邳の陳瑀は自ら呉郡太守を号し海西に拠って厳白虎と通じていた(裴松之注に引く『九州春秋』にその経緯が詳しい)。策は自ら白虎討伐に向かい、別に範と徐逸を遣わして海西の瑀を攻めさせ、その大将陳牧を斬った。また陵陽で祖郎を、勇裡で太史慈を攻めた。七県が平定されると征虜中郎将を拝命し、江夏を征し、鄱陽を平定した。策が薨じると(200年)、範は呉に赴き喪に服した。のち権が再び江夏を征した際、範は張昭と共に留守を守った。曹操が赤壁に至ると(208年)、範は周瑜らと共にこれを拒み破り、裨将軍・彭沢太守を拝命し、彭沢・柴桑・歴陽を奉邑とした。劉備が京に至り権に会った際、範は密かに劉備を留め置くよう請うたが容れられなかった。のち平南将軍に遷り柴桑に屯した。
- 権が関羽を討伐した際、範の館に立ち寄り「昔早くに卿の言を用いていればこの苦労はなかった。今こそ荊州を取るゆえ、卿は私のために建業を守れ」と言った。権が羽を破って戻ると(219年)武昌に都し、範を建威将軍に拝命し宛陵侯に封じ丹楊太守を領させ建業を治めさせ、扶州以下海に至るまでを督させ、溧陽・懐安・寧国を奉邑とした。曹休・張遼・臧覇らが攻め寄せると、範は徐盛・全琮・孫韶らを督し舟師をもって洞口で休らを拒んだ。前将軍に遷り仮節を授かり南昌侯に改封されたが、当時大風に遭い船人が転覆水死する者が数千に及んだ。撤退後、揚州牧を拝命した。
晩年
- 範は威儀を重んじる性質で、州の民である陸遜・全琮ら貴公子も皆敬い畏まって粗略に振る舞わなかった。その居室や服飾は当時としては贅沢であったが、職務には勤勉で法を守ったため、権はその忠誠を喜び贅沢を咎めなかった(『江表伝』によれば、範と賀斉の華美な服飾が王者に擬すると誹る者があったが、権は「昔管仲は礼を越えたが桓公は寛容にそれを許し覇業の妨げとならなかった。子衡・公苗(賀斉)に管仲のような過失はなく、器械が精良で舟車が厳整であるにすぎず、むしろ軍容を高めるものだ」と述べこれを咎めなかった)。かつて策が範に財政を掌らせ、権が若く私的な用立てを求めても、範は必ず策に報告し勝手には許さなかったため当時は疎まれた。権が陽羨長であった頃の私的な出費を、功曹の周谷はそのつど帳簿を偽って咎めを免れさせていたが、権は一時これを喜んでも、政務を統べるようになると範の誠実さを厚く信任し、周谷の帳簿操作の巧みさは用いなかった。
- 黄武七年(228年)、範は大司馬に遷ったが、印綬が下る前に病没した。権は喪服をまとってこれを悼み、使者を遣わし印綬を追贈した。建業に都を移した後、権は範の墓に立ち寄り「子衡よ」と呼びかけ、涙を流しながら太牢の礼で祀った(『江表伝』によれば、権は建業遷都の際に将相文武を集めた大会で、以前魯粛を鄧禹に、呂範を呉漢に比した自らの評を振り返り、厳畯に意見を求めたところ厳畯は謙遜して「言葉が過ぎているのでは」と述べたが、権は魯粛の英爽さと呂範の忠篤さ・軍への貢献ぶりを詳しく説き、それぞれ鄧禹・呉漢と重なる資質を持つと弁じ、厳畯もこれに納得した)。範の長子は先に没し、次子の呂拠が後を継いだ。
呂拠――生涯
- 拠は字を世議といい、父の任により郎となった。のち範が病に臥すと副軍校尉を拝命し軍事を補佐した。範が没すると安軍中郎将に遷り、たびたび山賊を討ちその凶悪な根拠地の多くを撃破した。太常の潘濬に従い五渓を討ち、また功があった。朱然が樊城を攻めた際、拠は朱異と共に城外の包囲を破り、戻って偏将軍を拝命した。馬閒右部督に補せられ、越騎校尉に遷った。太元元年(251年)、大風で江水が溢れ城門を漸次浸した際、権が水害の様子を視察させると、拠だけが人をやって大船を用意し被害に備えていたことが分かり、権はこれを嘉して蕩魏将軍を拝命させた。権が病に臥すと拠を太子右部督とし、太子(孫亮)が即位すると(252年)右将軍を拝命した。魏が東興に出兵した際、拠は救援に赴き功があった。翌年、孫峻が諸葛恪を誅すると(253年)、拠は驃騎将軍に遷り宮中の警護を平定した。五鳳二年(255年)、仮節を授かり孫峻らと共に寿春を襲い、戻る際に魏将の曹珍に遭遇しこれを高亭で破った。太平元年(256年)、軍を率いて魏に侵攻し淮水に達する前に孫峻の死と従弟の孫綝が代わって政を執ることを聞き、拠は激怒して軍を返し綝を廃そうとした。綝はこれを聞き中書に詔を奉じさせ、文欽・劉纂・唐咨らに拠を捕らえさせ、また従兄の呂慮に都下の兵で江都にて拠を迎撃させた。左右の者が魏への投降を勧めたが、拠は「叛臣となるのは恥である」と述べ自殺した。三族が誅せられた。