三國志卷五十四 吳書九 呂蒙

出自と武功

  • 呂蒙、字は子明、汝南富陂の人。若くして南渡し姉婿鄧当を頼った。鄧当は孫策の将で山越討伐を重ねていたが、15、6歳の呂蒙はひそかに従軍し「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と語った。母はこれを許した。
  • 部隊の吏に軽んじられ侮辱された際、呂蒙は激怒してその吏を斬り出奔したが、袁雄を通じて自首、孫策に見出され側近に置かれた。数年後、鄧当の死に伴い張昭の推薦で別部司馬となった。
  • 孫権が小規模な部隊を統合しようとした際、呂蒙は借金までして兵の軍装を整え、その練度の高さで権を喜ばせ増兵された。丹楊討伐に功をあげ平北都尉・広徳長。黄祖征討では都督陳就を自ら討ち取り、黄祖の逃走・討伐に貢献、権は「事の成就は陳就をまず討ったことによる」と評し呂蒙を横野中郎将とし千万銭を賜った。

赤壁からの軍功

  • 同年、周瑜・程普らと共に烏林で曹操を破り曹仁を南郡に囲んだ。降将甘寧の兵を程普が奪おうとした際、呂蒙は甘寧の勇を称え「遠来の帰順者から兵を奪うべきでない」と諫め、権はこれに従い兵を返した。曹仁が甘寧を夷陵で包囲した際も、呂蒙は10日守りきれると請け合い、周瑜に柴で険路を塞ぐ策を献じて勝利に貢献し、南郡平定・荊州安撫に功をあげた。偏将軍・尋陽令。

学問に励む(呉下の阿蒙にあらず)

  • 魯肅が周瑜の後任として陸口へ赴く途中、呂蒙の陣を訪ねた際、当初魯肅は呂蒙を軽んじていたが、呂蒙が関羽への備えについて5つの策を示すと魯肅は驚き「そなたの才略がここまでとは思わなかった」と称賛し親交を結んだ。
  • 江表伝によれば、孫権は呂蒙と蔣欽に学問を勧めた(「博士になれというのではない、往事を見聞きせよというだけだ」との言葉と、光武帝・曹操も学に励んだという例え)。呂蒙は篤志に学び、後に魯肅が「今の学識は呉下の阿蒙にあらず」と驚くと、呂蒙は「士は別れて三日あれば刮目して見るべき」と応じた。関羽への3つの策を密かに魯肅に授けたともいう。
  • 呂蒙は成當・宋定・徐顧の遺児(幼くして父を失う)に代わる兵の吸収を辞退し、彼らの功績を思い子弟が幼くとも廃すべきでないと3度も上奏して聞き入れられ、自ら師を選んで教育させた。

皖城攻略

  • 魏の廬江太守朱光が皖で稲田を開き鄱陽の賊帥を誘って内応させようとした際、呂蒙は「田が実る前に討つべき」と献策。孫権自ら皖を攻めた際、諸将は土山を築く長期戦を主張したが、呂蒙は「攻城具の完成には時がかかり援軍が来る、雨水のあるうちに一気に攻めるべき」と主張し、権はこれを容れた。甘寧を升城督として先鋒にし、自ら精鋭で続き、朝のうちに攻めて食事時には陥落させた。魏の張遼の援軍は間に合わず退いた。功により廬江太守、尋陽の屯田600戸を賜った。のち盧陵の賊乱を「鷙鳥百羽より一羽の鶚」と評されて再び討伐に任じられ、首謀者のみを誅して他は釈放した。

荊州奪取の献策

  • 劉備が関羽に荊州を守らせる中、孫権は呂蒙に長沙・零陵・桂陽の3郡を取らせた。2郡は服したが零陵太守郝普のみ抵抗した。劉備が自ら蜀から公安に至り関羽に三郡を争わせると、孫権は魯肅に益陽で関羽を防がせ、呂蒙には零陵を離れ急ぎ助けるよう命じた。
  • 呂蒙は南陽の鄧玄之(郝普の旧知)を用いて降伏を促す書を送り、劉備・関羽が窮地にあり援軍を望めないことを説かせた。郝普はこれを信じ降伏、直後に劉備が公安、関羽が益陽にいると知り恥じ入った。劉備が盟約を求め、権は郝普を返し湘水を境に零陵を返還、尋陽・陽新を呂蒙の奉邑とした。
  • 合肥出兵の帰路、張遼らの奇襲を呂蒙は凌統と共に死力を尽くして防いだ。曹操が濡須に大挙来襲した際は呂蒙が防塁を守り強弩1万張で撃退した。左護軍・虎威将軍。

関羽討伐

  • 魯肅の死後、呂蒙は陸口に移りその兵1万余を継ぎ漢昌太守を兼ねた。関羽の驍勇と野心を見抜き、密かに「南郡を守る徴虜将軍(孫皎)・白帝の潘璋・遊撃の蔣欽が備えれば曹操も恐れるに足らず、関羽の詐力を許してはならない、関羽が東進を控えているのは呂蒙らがいるからにすぎず、今討たねば取り返しがつかない」と献策。徐州攻略の是非についても「守りが困難で長江の一体化を優先すべき」と説き、権はこれを重んじた。
  • 関羽が樊城を攻めるにあたり公安・南郡に多くの守兵を残していることを見て、呂蒙は「自分は病と称し建業に戻る」と偽って関羽の警戒を解かせる計を献じた。関羽はこれを信じ樊城へ兵を移し、魏の于禁を捕虜にするなど戦果を挙げたが糧秣に窮し孫権の湘関の米を奪った。孫権はこれを機に出兵、呂蒙を先鋒とした。
  • 呂蒙は精兵を商船に偽装させ昼夜兼行し関羽の江辺の哨戒を悉く捕縛、士仁・麋芳を降した(呉書には虞翻による士仁への説得の書が詳しく伝わる)。南郡入城後、軍紀を厳しく保ち、部下が民家から笠を1つ奪った罪でも涙を流して斬るなど徹底し、道に落ちた物を拾う者もない秩序を保った。関羽の家族や部下への配慮も厚くし、関羽軍の士気は瓦解した。関羽は麦城から漳郷へ逃れたが将士は離反、孫権軍の朱然・潘璋がその退路を断ち、関羽父子は捕らえられ荊州は平定された。

最期

  • 呂蒙は南郡太守・孱陵侯に封じられた(江表伝によれば孫権は公安での大会で呂蒙の功をたたえ、歩騎・鼓吹を増やし、銭1億・黄金500斤を賜ったが呂蒙は金銭を固辞し許されなかったという)。
  • まもなく病を発し、孫権は内殿に迎えて手を尽くして治療させ、封内に治療できる者があれば千金を賜るとまで布告した。孫権は自ら壁越しに様子を窺い、食が進めば喜び、そうでなければ嘆いて夜も眠れなかった。一時快方に向かい大赦が出され群臣が祝ったが、再び重篤化し、道士に祈祷までさせたが、42歳で内殿で没した。呂蒙は生前の褒賞をすべて没後は官に返すよう命じており、喪儀も質素にした。孫権はこれを聞きさらに悲しんだ。

呂蒙の子孫

  • 呂蒙は若い頃書を学ばず、大事の際は口述で文書を作らせた。豫章太守顧邵の後任に、かつて自身を告発した蔡遺を推挙し、権に「祁奚(私怨を挟まぬ推挙で知られる古人)のようだ」と笑われた。粗暴な甘寧を庇い重用させたのも呂蒙である。子の呂霸が爵を継ぎ、守塚300家・田50頃を賜った。霸の死後、兄の呂琮、その死後は弟の呂睦が爵を継いだ。

孫権の周瑜・魯肅・呂蒙評

  • 孫権は陸遜に語った。周瑜は雄烈で膽略にすぐれ曹操を破り荊州を開拓した功は継ぐ者が難しく、質子を送らぬ決断や赤壁での抗戦を勧めた功を「二つの快事」と称え、劉備に土地を貸すよう勧めたのは唯一の短所だが二つの長所を損なうものではないとし、鄧禹に比した。呂蒙は若い頃の武勇に加え学問を修めて籌略に優れ周瑜に次ぐ域に達したとし、関羽討伐の功は魯肅を上回るとした。魯肅については「帝王の興隆には必ず先駆の犠牲があり関羽など恐れるに足りない」との書は内心と裏腹の大言だが咎めなかったとし、軍規の厳正さは美点であったと評した。

  • 評して言う。曹操は漢の丞相の権威を借り天子を擁して群雄を掃討し、荊州を新たに平らげ威を東方に及ぼした。当時の議論者は皆抗戦の可否を疑っていたが、周瑜と魯肅はそれぞれ独自の明断を示し、実に奇才であった。呂蒙は勇にして謀あり、軍事の判断に優れ、郝普を欺き関羽を捕えたことが最も見事な功績である。若い頃は軽率で残忍な面もあったが、ついには己を律する国士の器量を示した。単なる武将にとどまる人物ではない。孫権の評は優劣を的確に言い当てており、ここに記録する。