三國志卷五十四 吳書九 魯肅
魯肅、字は子敬、臨淮東城の人(?–建安22年、享年46)。周瑜と親しく交わり、赤壁前夜には抗戦を独り進言し、孫権に天下三分に通じる策を献じた。周瑜の没後は後任として軍を継ぎ、劉備への荊州貸与を主導し、関羽との単刀赴会でも知られる。呉の外交・戦略を支えた重臣である。
出自と周瑜との交わり
- 魯肅、字は子敬、臨淮東城の人。幼くして父を失い祖母に養われた。家は富裕であったが、施しを好み天下の乱れに際して土地を売り困窮者を救済し、郷里の人望を集めた。
- 周瑜が居巣長として数百人を率い魯肅のもとを訪れ食糧を求めた際、魯肅は所有する2つの3000斛の米倉のうち1つをまるごと譲った。以来両者は親しく交わった(呉書によれば魯肅は若くして剣術・騎射を学び、少年たちを集め武を講じたという逸話が詳しい)。
- 袁術に東城長に任じられたが、袁術に将来性がないと見て一族百余人を率い居巣の周瑜のもとへ移った。州の追手を弓の腕前で退けた逸話も伝わる。周瑜の東渡に同行し孫策にも見出されたが、祖母の死により一時東城に戻った。
孫権への出仕と天下三分の策
- 劉子揚(劉曄)が魯肅に鄭宝の元へ身を寄せるよう勧める書を送ったが、周瑜が「今の主君(孫権)は賢者を重んじる、先哲の秘論に従えば天下を承ける者は東南に興る」と説き、魯肅はこれに従った。周瑜は魯肅を孫権に推挙した。
- 孫権は魯肅と対面し深く喜び、密議した。魯肅は「漢室はもはや復興できず曹操も容易に除けない、将軍は江東に鼎足し天下の隙を窺うべき」と説き、「北方が多事な間に黄祖を除き劉表を伐ち長江の全域を領有した上で帝業を図るべき」と天下三分に通じる策を献じた。孫権は「今はただ漢を輔けることを願うのみ」と応じたが、張昭は魯肅を年少で粗略と評し軽んじた。しかし孫権はますます魯肅を重んじ、母への衣服帷帳を厚く賜った。
劉表死後の外交
- 劉表の死後、魯肅は「荊楚の地は肥沃で帝王の資となる、劉表の二子は不和で劉備も客将の身、劉備が協力すれば同盟を、そうでなければ別の策を講じるべき」と進言し、弔問と説得を兼ねた使者として自ら赴くことを願い出た。
- 夏口に至ると曹操がすでに荊州に迫っていた。魯肅は昼夜兼行し、当陽長阪で敗走中の劉備と会い、孫権の意向と江東の強固さを伝え協力を勧めた。劉備は喜び、諸葛亮を伴っていた(諸葛亮に「私は諸葛瑾の友人だ」と告げ交誼を結んだという)。裴松之は、劉備と孫権の連携がもっぱら魯肅の発案であったこと、蜀書の諸葛亮伝の記述と食い違うことを指摘する。
赤壁前夜の決断
- 曹操の東征の報に接した孫権が諸将に諮ると多くが降伏を勧める中、魯肅一人が沈黙した。孫権が席を立った際に追って進言し、「私が曹操を迎えても下曹従事程度の地位は保てるが、将軍が迎えれば行き場を失う」と述べ、早く大計を定めるよう説いた(魏書・九州春秋には別に魯肅がいったん降伏を勧め孫権の怒りを買ったとする異説があるが、孫盛はこれを疑わしいとしている)。
- 鄱陽に使者として出ていた周瑜を呼び戻すよう勧めたのも魯肅であった。魯肅は賛軍校尉として策を助けた。曹操敗走後、いち早く帰還した魯肅を孫権は自ら迎えの礼を尽くし、「馬を降りて鞍を持ち迎えるほどの栄誉で十分か」と問うと、魯肅は「まだです」と答え、周囲を驚かせた。魯肅は「至尊の威徳が四海に及び九州を統一し帝業を成した暁に安車軟輪で私を召してこそ栄誉」と述べ、孫権は喜んだ。
周瑜の後任として
- 劉備が荊州の都督を求めた際、魯肅は独り貸与を勧めた(漢晋春秋によれば呂範が引き留めを勧めたのに対し、魯肅は「曹操の威力はなお重く、まだ荊州の恩信が浸透していない、劉備に統治させ敵を増やす方が得策」と論じた)。曹操はこれを聞き驚いて筆を落としたという。
- 病篤い周瑜は上疏し「魯肅の智略は自分に代わるに足る」と後任に推薦した(江表伝には別に周瑜が孫権へ宛てた病中の書が伝わる。曹操の脅威、劉備を虎を養うが如しとする警戒、魯肅への信頼が記される)。魯肅は奮武校尉となり周瑜の兵4000余人と奉邑4県を継いだ。江陵に住み、のち陸口に移り威信を広め兵は1万余人に増え、漢昌太守・偏将軍、建安19年には横江将軍に転じた。
関羽との会談(単刀赴会)
- 益州の劉璋が乱れると周瑜・甘寧は蜀取りを勧め、孫権が劉備に諮ると劉備は自ら取ることを図り、権への返答では「璋と同族のため干渉を控える」と偽った。劉備が益州を得て関羽に荊州を守らせると、孫権は長沙・零陵・桂陽の返還を求めたが劉備は応じず、呂蒙を派して奪取させた。劉備は自ら公安に戻り関羽に三郡を争わせた。
- 魯肅は益陽に駐屯し関羽と対峙した。魯肅は関羽と会見を求め、諸将百歩の外に留めて単刀の従者のみで会う「単刀赴会」を行った。魯肅は「国家が土地を貸したのは貴軍が敗れて資に困っていたためであり、益州を得た今は返還すべきなのに三郡すら渡さないのは道理に合わない」と責めた。傍らの者が「土地は徳ある者のものだ」と口を挟むと魯肅は厳しく叱責し、関羽は刀を取って立ち、その者を退けた(呉書には両者の応酬がより詳しく伝わり、魯肅は劉備の恩義を蒙りながら荊州併呑を図ることを非難し、関羽は答えられなかったとする)。結局劉備は湘水を境に土地を割譲し、両軍は兵を退いた。
晩年
- 建安22年、魯肅は46歳で没した。孫権は自ら喪に臨み葬儀にも列した。諸葛亮も哀悼の意を表した。呉書によれば人柄は方正厳格で贅沢を好まず、軍の統制は厳正、陣中でも書を手放さず、談論・文章にも優れていたという。孫権は帝を称した際「魯子敬はかつてこの日を見通していた」と語った。子の魯淑は成長後、濡須督張承に将来を嘱望され、永安中に昭武将軍・都亭侯・武昌督、建衡中に仮節・夏口督となった。鳳凰3年に没し、子の魯睦が爵を継ぎ兵を領した。