若年と州郡の争い
- 太史慈は字を子義といい、東萊郡黄県の人。若くして学を好み、郡の奏曹史に仕えた。郡と州との間で争いが起きた際、太史慈は先に訴え出た郡の使者として洛陽に赴き、機転により州の上奏文を切り裂いて破棄し、郡側を有利に導いた。この一件で名を知られたが、州から恨みを買い、禍を避けて遼東へ逃れた。
孔融の危難を救う
- 北海相の孔融はこの評判を聞いて太史慈を高く評価し、たびたび彼の母を見舞った。孔融が黄巾の賊管亥に都昌で包囲されると、太史慈は母の勧めで単身包囲網を突破して孔融のもとへ入り、援軍要請のため劉備のもとへ赴くことを申し出た。
- 巧みに囲みの兵を油断させて城外へ出た太史慈は平原の劉備を訪ね、孔融の危急を説いた。劉備は精兵三千を送り、賊は囲みを解いて逃げ去った。孔融は太史慈を「わが年少の友」と称えた。
劉繇・孫策との出会い
- 揚州刺史の劉繇は太史慈と同郡の出身であった。遼東から戻った太史慈がまだ会わぬうちに孫策が至った。ある者は太史慈を大将軍に用いるよう勧めたが、劉繇は「許劭に笑われよう」と偵察役にとどめた。
- 太史慈は単騎で孫策とその従騎十三名(韓当・宋謙・黄蓋ら)に遭遇し、孫策と一騎打ちとなった。孫策は太史慈の馬を突き、太史慈は孫策の兜を奪う互角の勝負となったが、両軍が駆けつけて分けられた。
孫策への帰順
- 劉繇の敗走後、太史慈は蕪湖に逃れ丹楊太守を自称し、涇県に屯して多くの山越を従えた。孫策自ら討伐に赴き、太史慈は捕らえられた。孫策は縄を解いて「神亭のあの時を覚えているか」と問い、太史慈が「まだ分かりません」と答えると、孫策は大笑して「今日からは共に事をなそう」と語った。
- 『江表伝』によれば、孫策は太史慈の信義を高く評価し、劉繇の残兵の招撫を任せた。門下督に署せられ、呉に戻って兵を授かり折衝中郎将を拝命。劉繇が豫章で没すると、孫策は太史慈にその遺衆の慰撫を命じた。裴松之は『呉暦』の異伝(太史慈が神亭の戦いで敗れて捕らえられたとする説)を本伝と大きく異なるとして誤りと疑っている。
劉磐への備えと晩年
- 劉表の甥・劉磐は驍勇で艾・西安などの県をたびたび侵した。孫策は海昬・建昌以下六県を分けて太史慈を建昌都尉とし、海昬に治所を置いて諸将を督させ劉磐を防がせた。以後、劉磐は寇掠を絶った。
- 太史慈は身の丈七尺七寸、美髯を蓄え、猿臂で弓に長け、麻保の賊討伐では城楼上の賊の手を射抜く妙技を見せた。曹操はその名を聞き、書を篋に封じて送ったが中身は無く当帰の薬草だけが入っていた(招致の暗喩とされる)。孫権が政を統べると、劉磐を制する太史慈に南方の事を委ねた。
- 建安十一年(206年)、四十一歳で没した。『呉書』は臨終に「男児たるもの七尺の剣を帯びて天子の階に昇るべきなのに、志半ばで死ぬとは」と嘆いたと伝える。子の太史享は越騎校尉に至り、のち尚書・呉郡太守を歴任した。