三國志卷四十九 吳書四 士燮

士燮は字を威彥といい、蒼梧郡広信の人。祖先は魯国汶陽の出で、王莽の乱の際に交州へ逃れた。父の士賜は日南太守を務め、士燮自身は京師に遊学して『左氏春秋』を修め、交阯太守に転じた。漢末の混乱の中で兄弟とともに交州七郡を治め、建安十五年(210年)に孫権へ帰服して以後在任四十余年、南方の安泰を保った。当時の権勢は南越王尉佗にも比されたが、没後は子の士徽が抵抗して呂岱に討たれ、一族は滅んだ。

年表(3件)

出自と若年

  • 士燮は字を威彥といい、蒼梧郡広信の人。その祖先は魯国汶陽の出で、王莽の乱の際に交州へ逃れた。六世を経て父の士賜は桓帝の時に日南太守となった。
  • 士燮は若くして京師に遊学し、潁川の劉子奇に師事して『左氏春秋』を修めた。孝廉に挙げられ尚書郎となったが公事に連座して免官。父の喪が明けた後、茂才に挙げられ巫県令、のち交阯太守に転じた。

士燮の兄弟

  • 弟の士壱は初め郡の督郵。刺史丁宮が京師に召還される際、勤めて護送し、丁宮が司徒となれば辟召すると約した。後に丁宮は司徒となったがすぐ免ぜられ、黄琬が代わって士壱を厚遇した。董卓の乱で士壱は郷里に逃げ帰った。交州刺史の朱符が夷賊に殺され州郡が乱れると、士燮は士壱を合浦太守に、次弟の徐聞令士䵋を九真太守に、その弟の士武を南海太守に、それぞれ表して任じさせた。

治政と学問

  • 士燮は度量が広く謙虚で、中国から避難してくる士人が百を数えた。『春秋』を愛好してこれに注解を施した。陳国の袁徽は荀彧への書簡で、士燮が学問に優れ政に長じ、大乱のなかで一郡を保ち二十余年疆場に事無く民の生業を失わせなかったと称え、竇融が河西を保った故事に比肩すると評した。

士燮兄弟の威勢

  • 士燮兄弟は列郡を治め一州に雄長し、外出には鐘磬を鳴らし笳簫鼓吹を備え、車騎は道に満ち、胡人が轂を挟んで焚香する者が常に数十人いたという。妻妾は輜軿に乗り子弟が兵騎で従い、当時の栄華は南越王尉佗にも劣らなかった。葛洪『神仙伝』は、士燮が病死した後、仙人董奉の薬で三日後に蘇生した逸話を伝える。弟の士武は先に病没した。

漢朝・孫権への服属

  • 朱符の死後、漢は張津を交州刺史に遣わしたが、津も部将の区景に殺された。荊州牧劉表は零陵の賴恭を津の後任として遣わし、蒼梧太守史璜の死去に伴い呉巨も派遣された。漢は張津の死を知ると士燮に璽書を賜い、綏南中郎将として七郡を統べ交阯太守を兼任させた。士燮は張旻を遣わして貢を奉り、道が断たれた大乱の中でも朝貢を絶やさなかったため、安遠将軍・龍度亭侯に任じられた。
  • のち呉巨と賴恭が不和になり、恭は零陵へ逃れた。建安十五年(210年)、孫権は歩騭を交州刺史に遣わし、士燮は兄弟を率いて命に服した。異心を抱いた呉巨は歩騭に斬られた。権は士燮を左将軍に加えた。建安末年、士燮は子の士廞を人質に出し、権は廞を武昌太守とし、南方にいた士燮・士壱らの子はみな中郎将を拝命した。士燮はさらに益州の豪族雍闓らを誘って権への帰服を促し、権は衛将軍・龍編侯に、弟の士壱を偏将軍・都郷侯に取り立てた。士燮は毎回、香料や真珠・大貝・玻璃・翡翠・玳瑁・犀角・象牙などの珍品、蕉・邪・龍眼といった奇果を千単位で献上し、士壱もまた数百頭の馬を貢いだ。士燮は在任四十余年、黄武五年(226年)に九十歳で没した。

士燮死後――交阯の乱と平定

  • 権は交阯が遠隔にあるため合浦以北を広州とし呂岱を刺史に、交阯以南を交州とし戴良を刺史に分けた。さらに陳時を士燮の後任の交阯太守として派遣したが、士燮の子・士徽は自ら交阯太守を称し宗族の兵で戴良を拒んだ。士燮の旧吏・桓鄰が士徽に戴良を迎えるよう諫めて笞殺されると、桓鄰の兄の桓治・桓発が兵を挙げて士徽を攻めたが数か月落ちず、和議で兵を収めた。
  • 詔を受けた呂岱は士徽誅殺のため昼夜馳せて合浦から良と合流した。士壱の子で中郎将の士匡が呂岱と旧知であったため、岱は士匡を先に遣わして禍福を説かせた。士徽の兄弟である祗・幹・頌ら六人は肉袒して出迎え、呂岱は服従を認めて郡に入城。翌朝の宴で士徽兄弟を順に招き入れ、詔書を読み上げて罪を数え上げると、士徽らは縛られて処刑され、首は武昌に送られた。孫盛はこの一件について、呂岱が士匡を通じた信義を裏切って一族を滅ぼしたことを厳しく批判している。士壱・士䵋・士匡らは後に出頭し、権はその罪を許した。士燮の人質であった子の士廞も庶人に落とされた。数年後、士壱・士䵋は法に坐して誅され、士廞は病没して子がなかった。

史論

  • 評して言う。劉繇は名節を重んじ、人物評価に鋭かったが、乱世に万里の地を治めるのはその長所ではなかった。太史慈は信義に篤く、古人の風格を持っていた。士燮は南越を守って生涯を全うしたが、子孫が慎まなかったために自ら禍を招いた。これは凡庸な子孫が富貴に溺れ、地の険阻を恃んだ結果である。